信という種

人は自分が何を信じるかで周りの人を感化していくもののように思います。

その人が未来に何を信じているかで、人は大きな影響を受けるのです。

過去の体験の中で人は経験という意識の中で信じているものの世界に生きています。きっとこうであろうという思い込みや、こうなるはずだという刷り込みというものもまた、その人が信じ込んでいる世界に生きているということでもあります。

かつて、乗り越えられなかった過去があったとしたらそれに縛られてしまうと未来はその信じたように引き寄せていくものです。もしも未来をまったく別のものだと信じているならば、その未来が変わるまでその人は信じようとするのです。

信じるということは頭でできるものではありません。それはまさに全身全霊、五感をフル導引して新たなことに挑戦しているときに体験を通して積み上がっていくものです。自分が信じたいと思う世界を引き寄せていくには、自分が信じる方向性を変えつづけていく精進が必要だからです。

それはまさに己に克ち続けるという実践のことです。

自分が信じ込んでいる世界を刷新していくには、自分の中に未来への希望と理想を抱き、その理念が実現すると真摯に信じ切る実践と体験を通して積み上げていくのです。

どんな未来を実現したいか、どんな未来にしていきたいか、その志があるからこそ信じることのために天命に身を捧げ使命を生き切ることができるようにも思うのです。

かつての先人たちが理想の世界を信じて繋いできたもの、それが義であり愛です。

こういう世界にしてほしい、こういう未来になってほしい、こうでありたいと深く尊い祈りを籠めて自分たちの生き方でその信を繋いできました。日々の人生の出会いや旅を通して、そういう人たちの魂に触れるたびに心魂が揺さぶられ、自分もその大義を結び生き抜きたいという気持ちになっていきます。

何を信じて生きてきた人たちがいたか、そして人々をどの方向へと導いていけばいいか、それがこの世に生を受け、社會の中の大切な一員である自覚のように思います。

日々に何を信じて行じていくか。まさに日々是道場、日々是真剣勝負ということでしょう。

己に克つのは信じる力を醸成していくからでもあります。子どもたちに譲っていきたい未来のために、どれだけ信を強くするか、そして出会う人たちに信の種を蒔いていくか、それは己の心の覚悟です。

信という種を蒔き、未来を信じるものへと転換していきたいと思います。

  1. コメント

    「信仰は試される」と言いますが、それは、「信じているか、いないか」ではなく、「100%信じているか」ということでしょう。試されるのは、1%の「疑」です。その「疑」を放置しないように、克己の工夫を重ねなければなりません。一時的に信じることはできても、一人、その「信」を持ち続けることは至難の業です。朋友と励まし合いながら、自分の信じる世界が叶うまで、現象に振り回されないように、自分の心のなかに「信」を育て続ける必要があります。その姿で、人を感化できるようでありたいと思います。

  2. コメント

    子どもを見ていると何をしているかは分かりますが、何を観ているかはわかりません。聞いて見て、その想像力に驚かされると共に、何をしているかも、認識がずれていたことに気づきます。
    その人の過去や今ではなく、未来を見る。未来を信じるということをこれからは深めるべく、実践を積んで行きたいと思います。

  3. コメント

    夏というこの季節に幸せを感じる度に、四季を味わうことのできるこの日本という国の素晴らしさを感じます。今その祖国に生きられるのも、祖父母、両親、祖先が信じて下さった未来があったからだと思うと、その思いやりの中で自分はいかされているのだということを常に感じられている自分でありたいと思います。そして今、その思いを受け継ぎ繋いでいくのは自分なのだという覚悟をもって、子どもたちの生きる未来のために尽力していきたいと思います。

  4. コメント

    「もっと自信を持っていい」と何か込み上げてくるものを感じています。カグヤの仕事は何かと考えた時、実践や諸々なことがふっと繋がりそう思えています。信じることは自信を持つことでもあるのかもしれません。これまで以上にそう感じられていることに感謝し頂いている機会や意味を感じ取れるようになりたいと思います。【●】

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