自然農園の田んぼに出てみると本当に沢山の虫たちに驚きます。
稲の周りには、トンボやクモたちをはじめ、水中にはゲンゴロウにエビやカニワナ、数えきれないものたちが生活を一緒に営んでいます。不思議ですが、4月まではそこには水中生物ではない生きものたちの棲家であったものが今ではすっかり別の生きものたちに入れ替わっています。
環境が変化するということは、そこに棲まう生きものたちも変化するということです。
如何に環境が大切なのかということを実感します。
またその環境を左右するのが水であることは明白です。この水というものは、如何に生物たちに多大な影響を与えているかが分かります。水の流れというものを通して、光や風を感じるのが生命です。その水は生命を活かすのです。水が澱むことで腐敗をうみ、水が通ることで発酵をうみます。つまりは水を如何に通すか、水が如何に流れるかが大事ですがその水も適量な水量と適切な水流がいるのです。
田を学んでいると如何に「水」というものがキーワードになっているのかが分かります。あまりにも当たり前すぎて見過ごすところですが環境を学ぶのにこの水の流れというものの自然の技術の習得が必要なのでしょう。火や水、土や木、光など自然を使って技術化したところに人間文明の進化発展してきた真実があるのでしょう。
学びははじまったばかりですが、山から流れてくる清らかな水に心も体も研ぎ澄まされていきます。水は流れているときに水の徳性が顕現するように思います。流れる水に心を澄ませ、自然の技術を会得し祖神たちの恵みと智慧を復興していきたいと思います。
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先日の台風を見ても、勢いのある水が全てを飲み込み通り過ぎればいつもの穏やかさを取り戻し、同じ水でも流れを変えるのがよく分かります。
今回出会った方々を思い返しても皆思いだけでなく、技術を持っていました。器に合わせて形を変える水のように、どちらも兼ね備えていけるよう、今思い描くものは形にしていきたいと思います。思い描く量が今の実力であることを認め、理念に向かい実践を積んでいきたいと思います。【○】
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水は、いろいろなものに利沢を与え、この自然のなかで水なくして生き成長しているものはひとつもありません。その「水の働きとそのあり様」に、老子は「上善は水の如し」と理想の生き方を求めました。透明で清らかであり、流れ、洗い、潤し、浄化する。形にとらわれず、引っかからず、道を選ばず、低きを求める。キラキラと光を蓄え、鏡となっては万物を映し、舟を浮かべては道となる。源流から湧き出で、支流を抱えて海に到り、雲となり慈雨となって、また大地を潤す。また、特異なところでは、水は人間に「水平」を教えてくれました。まだまだ人間は、この水から学ばないといけないことがあるようです。
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暑い夏の日には、人間の体にも水が不可欠であることを実感させられます。この体も半分以上は水で出来ていて、その中を流れる血液はまるで川の流れのようにも思えますが、「万病一元、血の汚れ」という言葉からも、澱むことで腐敗していくのは地球も人も同じなのだと感じます。留まることのない自然のように歩みを止めずに循環し続けていきたいと思います。
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自分自身の器を見た時、自分自身の価値観だけしか認めない器や水では、水槽に入れただけの水の様に腐って行くと感じます。ビオトープのようにそこに、自分の意思や価値観とは無関係の価値観が多様性を織りなすほどに、水は澱まず、腐らない事を去年からの家庭での金魚の飼育で感じています。淀むのは共生を拒むからだと自分に言い聞かせ、自分の価値観をよく観察したいと思います。