人は運の善さというものがあるように思います。
いつも運が善い人と運が悪いと言っている人がいますが、これはその人の生き方のことを言っているように思います。運が善い人というものは、信仰心が高い人とも言えます。自分が何か偉大な存在に見守られ歩ませていただけていることに感謝の心を持っているということです。
自分のことが信じられるというのは、見守られていると実感することです。そしてそれは見守ってくださっているから安心して前進するということでもあります。
昔から早起きは三文の徳ということわざがあります。
これは早起きをすると何かしら善いことがあるという意味ですが、これは信仰心がそうさせるのではないかと今では確信します。早く起きるのは、御蔭様に気づくからです。そしてそういう見守りの存在に気づいているから早く目覚めその感謝の心のままに動いてみようと思うのです。
感覚的ですが人は結果が視えていれば動くというタイプと、結果が視えていなくても信じているから動くというタイプがあります。前者は運が悪いと言っている人が多く、後者はいつも運が善いと言っている人が多いように思います。
これも運が善いというのは、「きっと善いことがある、きっと善いことになる」と信じているからいつも運が味方するのでしょう。そうやって善いことがあり善いことになると信じているから朝早起きして動くことができるのです。
畢竟、運の善さというのは信仰心、運に包まれている仕合せを信じて歩んで往こうとする生き方が習慣になっているのです。つまり運とは、「活かされている」という存在に目覚めているということです。活かされている存在の自覚こそ信仰心であり運の善さということです。
私にとっては南無阿弥陀仏もアーメンも、同意義として「おはようございます、おかげさまです、ありがとうございます」のあいさつの中にすべて入っています。そしてまずその最初の実践は、「お早うございます」に他なりません。
早起きとは信の実践そのものであり、運を信じていますという合図なのです。
夏期実践休暇にての報告をまとめていますが、今年も偉大な存在の導きと、そして偉大な存在の見守りの中で自己の気づきと目覚めをいただきました。心を澄ませて、心新たにまた挑戦させていただく有難い日々を精進していきたいと思います。
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「運を味方にする」という表現がありますが、それは「天を味方にする」というのと同じ意味であり、「天が味方してくれる限り、うまくいかないはずがない」という確信に繋がっているのではないでしょうか。そこにある「見守られている安心感」と「全託の信頼感」は、信仰心と感謝、そして自助努力の精神によって支えられているのでしょう。「日々、天のはからいに感謝できるような生き方」をしているかどうかが、常に問われています。そういう意味では、「早起き」は、天に味方をしてもらえる最も素直な生き方であり努力なのではないでしょうか。
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いつも通り起きた朝と、少し遅く起きた日。そのことで気が滅入り何か罪悪感すら感じることもあります。寝るときに明日はゆっくり寝ていようと決めていればいいのですが、そうでない朝はもったいないことをしたと後悔します。後悔しているときに感謝も運も入ってきませんが、自分の行動次第で運は引き寄せられるのだと感じています。自分自身の行いが全てを決めると思うと、いつも奇跡を祈るより、在りたい言動を務めていきたいと思います。【●】
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朝早く起きるのも、事務的に早く起きるのと信じるもの、やりたいことがあり早く起きるのかでこんなにも違うのかと感じています。
しかし、早く起きなかった日と比べればその違いも大きな違いでもないと感じます。実践休暇も終えてみて振り返ってみると、朝が良ければその日の運びもうまくいきましたが、遅い日を振り返ると違和感や自分に負けてしまい自信の喪失につながりました。自分の心、信仰を守り、我欲に克つ自分を大切にしていきたいと思います。
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田舎での早起きは田園があり山があり、朝日の昇る前に外に出てみれば静けさの中から清々しさを感じました。生き物たちが活動を始めようする気配から活力も同時にもらえたように思えますが、こちらに戻ってくると周囲は建物ばかりで生き物の気配が乏しく、この辺りにも活かされているという感覚が薄らいでいく要因があるように思います。全ては自分の意識次第、条件に囚われず感じる力を高めたいと思います。