学び方

分かった気になるや遣った気になるというのは、偏っているということを意味している。

例えば、いくら知識として先に話を聴いたり自分で調べたり何かを発見してわかったとしてもそれが具体的にどのようなシーンでそうなっているのかや、どのようにやることが現場実践なのかということがわからないという人がいる。

これは知識と現場での体験が繋がっていないからであり、頭では理解しているのだけれど実際にはやれないということである。

学識だけや権威だけでそれをやろうとしても、今までの現場での経験や体験による心体一致による気づきや習得がなければ頭でっかちに分かったとなっても実際はそれは分かった気になっているだけでもある。

経験主義ではないけれど、実際にやってみていないことは分かるはずがない、やったことだけが気づくことに繋がり、そこから学んだ本物の体験と経験が知識と重なり智慧と工夫を身に着け偏らない現実の話ができるのだと思う。

また逆もあり、現場でコツは掴んでいるもののそれを一向に言葉にできず語ることもできない人もいる。具体的なシーンだけを伝えても、それがどのような理論で科学的に証明されているのかや、分析したりといった周囲がそれを活用するために必要な知識を語れなかったりする。

どちらにしても、「知行合一」を実践していることこそ正しく学んでいるということであろうとも思う。世間では、学ぶということを勘違いしてどちらかだけで生きようとするから矛盾でバランスが悪くなっているのだろうとも思う。

もっと素直に正直に学ぶことからだと思う。

そしてこの学ぶというのは、真似るという意味だと師に教わったことがある。

簡単に言えば、コピーをすることだけれど、このコピーをすることを自信がない人ほど嫌がりなぜかいつまでも自分流などと真似もせずいつまでたっても一向に上達せず頑なに人の真似をするのを嫌がる人がいる。

礼儀や作法、その他、仕事の仕方などもいつまでもおかしなことをし失敗をするのは、真似をするよりも自分のやり方などという自分勝手な解釈での理解に固執している人もいる。

基本的には自尊感情というか、自分のことを信じる事ができるのならば別に他人の真似をすることは自分を失うことではないことはすぐに理解できる。しかしそういうものがないと、何か誰かの真似をすることは自分ではなくなると個性というものを勘違いしているのだろうとも思う。

子どもたちを見ても、赤ちゃんのときから周囲のやっていることを自らが真似をしできるようになっている。最終的に、それが個性がなくなったとは誰も言わないはずである。

自分できるようになるには、学び方の自立がなければいつまでも自立することはない。社会に出てきて、誰かに教えてもらうまで何もしないや、誰を見ても自分から気づいて真似もしないような状態ではその人が学ぶということを理解していないのだからほとんど本当の意味での上達はしない。

仕事はOJTの中でとあるのは、現場で背中を見ながら真似をしたりという風に仕事は見たものをやってみることや、見たものを聞いてみることなどで、現場の体験を通じで学んでいくのが学ぶことでもある。

そういうことなしに、学んでいますとか学びましたとかいうことはありえないのであり、それがわかった気になるややった気になるという自己都合の自己満足の学んだ気になっているという勘違いを生んでいるのである。

勘違いをしていたら一向に積み上がっていかないので、すぐに改め一つ知り一つを行動し、行動したものから一つを学び、そして真似から繰り返すことで自分なりにあり方とやり方を習得して個性が発揮されるのである。

子どもたちからも自然からも教わり、本来の学ぶ意味を感じ取っていきたい。

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