人は自分の役割がこうでなければならないと頭で考えているときは、役割分担ができないものです。
たとえば、自分は兄だからとか親だからとか、もしくは社長だからとか部長だからとか、そういう頭で考えて思い込みから入ってみてもそれは頭でこうでなければならいという捉われの中にいて自然体ではありません。
他にも仕事の仕方一つをとっても、頭でいくら真心や見守るとやってもそれは思い込みでやろうとしているだけで心で信じてやっているのではありません。
そもそも頭でやらないというのは、心で行うということです。そのためには自分が常に信じ切っているかどうかということを自らの実践と行動ができるようにいつも心は一に止まっている必要があるのです。
心がいつも慎み鎮まっているのなら、どのような行動や言動、そして取り組みも信が入っています。そうすれば目の前の現状に捉われず自然体の自分を発揮していくことができるのです。
しかしその信を怠るならば、目の前の事象に刷り込まれそれをいくら抜け出そうとしても対処療法ですから自分ではコントロールできている気になっていても実際は不自然な対応ばかりをしてしまうことが多いように思います。
頭だけでやろうとするから信は入らず、形だけでやろうとするから頭ばかりを働かせてしまうのです。
本来、信を入れるというのは事前準備や振り返りといった自分の心が決めた成果についてどうすればその目的が達するかを一人静かに覚悟して取り組んでいくようなものです。
自分自身の心が迷っていたら、現実の世界は頭ばかりを使ってしまって流されるままにだらだらと過ごしてしまうかもしれません。自分がどのような成果を出したいと思っているのか、自らと正対し自らを受け止め、心を決めて取り組むことで頭を従えることができるように思います。
そうはいっても今の社会はなんでも簡単便利に自分の思い通りにいくことが良いといった価値観の環境の渦の中に自分たちも存在します。昔よりも一層、自分を律して自由を持つ実力が求められます。
常に自他から学び、信を育てていきたいと思います。
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「試合」の点数は「勝ち負け」を決めるためのものですが、「試験」の点数は「合否」を判定するためにつけられます。同じようにそれぞれの目的に向かって努力し、その結果に対しても同じように一喜一憂するでしょう。しかし、この二つには根本的な違いがあります。それは「土俵の違い」であり、「自信と不安の根拠の違い」です。それが「迷いの違い」を生みだしています。「試験を受けているような生き方」をしている限り、どこまでいっても「信」を育てることはできないのではないでしょうか。
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過去の偉人を調べていると、言志四録や啓発録など自分自身を奮い立たせるものを持ち事に当たっていたのだと感じています。偉人と言えども同じ人間で不安に思ったり同じような感覚があったのだと思うと、ここからが信を育てるチャンスなのだと感じています。名を遺した人たちがこういった場面でどうしていたのか、どんな思いで振り返っていたのかその気持ちを考え自分自身も行動していきたいと思います。【●】
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「何のため」という、そもそもの目的を考える時も、手前のことから考えすぎれば異なったものを信じてしまうのだと感じました。自分の大切にしたい生き方、会社の大切にしたい在り方、その大本からおろしていくことが信を入れるために必要なのだと感じています。その意識から変えていきたいと思います。
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子どもに対しても、本人自身が発達する力を持っていると信じていれば、大人から手を出し過ぎたり、誘導しないのだと感じます。また!反対に環境になれているか、邪魔をしていないかと振り返ると、自分の不足に気付かせて頂く機会となっています。しかし、信じているからこそ、不足を正し、見守る姿勢を崩さぬようにいますが、信じていなければ、子どもの意思とは関係なく何か子どもにやらせこんだり、思い通りに近づけようとするのだと感じます。自分の頭の中よりも行動に真実は隠されているのだからこそ、子どもに限らず、自分の行動を振り返って行きたいと思います。