若さゆえに分別がつく前に、激情に任せて誰にも負けない情熱を傾ける元気や活力が湧いている状態に血気というものがある。
思い込みや先入観から行動力と好奇心が何か一つのものに集中するとき何か不思議な高揚感というか充足感が出てくるとどうしても向こうみずに真っ直ぐに意気に任せて取り組もうとする。
そしてそれでいいと思ってしまう、けれどそれが次第に傲慢になり、多くの人たちの犠牲に繋がり、一人で全てをやるということは実は通用しないと分かったとき、周囲の有難みに気付き、それが若気の至りであったと反省してから人は本物の強さや優しさというものに目覚めていくのであろうとも思う。
無知というのは、やったらどうにかなるというような根性や意気だけで何とかしようと勘違いすることであり、そういう無分別な行為は周囲の仲間一人ですら守れない弱い力である。
本当に仲間や大切なものを守りたいと思うのなら、正しく自分の力を自覚して周囲と協力し助け合っていく本物の強さを持たなくてはならない。
私たちの国の神話に、国津神と天津神というものがある。
国津神の力と意気だけでは、国は治まらず、天津神の和合や思いやりの心が欠ければ平和が続かないとし、常に全体のバランスを保つことの大切さを創始理念としてこの国のカタチを子孫たちが実践して今がある。
無謀で強大な力だけで何とかしようとする先に、自国の正義という自分側に偏った利益を守るために戦うといつまでも戦争はなくならないのである。国々の神話や歴史を遡れば遠い過去にすでに実証済みでそれは不可能であることは心の奥底で私たちは知っているのである。
世界の国々はまだ歴史が浅く、そして若い。
そしてリーダーと呼ばれる、国の指導者たちも人生が短く目先のことに右往左往してより悠久の流れを感じれず世界はまだまだ平和に治まる気配もない。
この先はすべての力を一度失ったとき、もともと眼にはみえないけれど広大無辺に包まれている愛や思いやりを見出し、和合の持つ真の力に目覚めるのであろうとも思う。
人間は自然を支配できるなどと誤解するのではなく、自然の本質に気付き周囲のお力の御蔭で自分は力を出せているのだと全体調和から自分を見つめるとき、はじめて自分というものの限界や自分というものの本当の力を自覚することになるのであろうとも思う。
孫子にある、「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」は、己の力を過信せず、過小評価せず、正しく力そのものを理解し、相手を同じように知れば、すべての物事を平和に解決することができることを意味しているのではないかと私は解釈をする。
力に魅せられているのは若い証拠である、まだまだ地球の歴史は若く浅い、これから様々なものを学び平和の意味を学ぶのであろうと思う。
子ども達には、出来る限り先人たちの教えを伝承し、その伝承から正しく気付けるような環境を用意していきたい。気付いたものから変わることで、世界はまだまだバランスを保つ余地を残している。
心を育てて、道をしっかりと絶やさず遺していきたい。