人はよく見て観ると何がしたいのかというのを発信しているものです。
今は知識が増えて、無理に自分のやりたいことをその枠の中で考えてしまうものですが本来、子どもの頃は自然に自分のやりたいことを発信していたのです。それは遊びを通して遊びの中で学んだことを思い出すのです。
幼いころ、なんでも興味がありどんなことでも面白いと好奇心のままに夢中で遊びました。特に子どもの頃は、ありとあらゆる想像力がハタラキ、現実と夢の間がわからないほどに目の前の出来事や事物から想像することができました。
ひとたびやりたいことが何かに阻害されると、意地でもそれをやり抜きました。自分が何をしたいのかを知ることは無上の喜びだったからです。自分がやりたいことをやっていると安心しました、それは世界が面白かったからです。
たとえば、生きていくために必要な力を動植物は持っています。狩りの仕方から、求愛の仕方、集団形成の仕方、そういうものを子どもの頃から遊んでいる中で身につけていきます。
動植物は人間のように無理に勉強しなくても、本能の中で生きる知恵を学ぶことが面白いようにインプットされているのです。そのインプットされているものは好奇心によって引き出されます。
発達していくというのは、好奇心を見守ることです。その人が本当にやりたいと思っていることをさせてあげる、信じてあげるということです。時には大人には都合の悪いこともありますが、子どもにとってはそれはとても重要な場合が多いのです。
人はこれでいいと信じられるとき、それでいいと信じてもらえるとき、はじめて自分の中の想像力が開花していきます。教えられていない知識、教えようがない知識によってはじめて知恵というハタラキを実感できるのです。
信じるということの偉大さというのは、その人の生を全うさせてあげたいという慈愛と真心の発露です。教えなくてもその人は立派な存在ですから立派になります、しかし周囲に真似できるような立派な大人がいる場合に限りです。だからこそ子どもの周りには好奇心を忘れずに人格を高める大人たちの見守りが必要ということなのです。
子どもは正直でその生に一切の嘘がなくあるがままですから、そのままでいいと信じることで安心して発達していくのでしょう。文字がなかった時代から、私たちが受け継いできた言語は「発達」です。
自然に種を残すのも、自然に生き方を継承するのも、言葉や文字ではなく本能によって行われてきたから今を生きているのでしょう。
子どもの周囲に自然をつくることは、好奇心を信じてあげることです。自然のままでいいというのは心構え次第ですか実践を深めていきたいと思います。
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子どもたちの周りに、「好奇心を忘れずに人格を高めた大人たち」がいて、ひとり一人を見守るということが、ほんとうに大事だと思います。そのためには、大人たちも、いま一度、自分の「好奇心」というものを自覚する、あるいは、思い出す必要があるのではないでしょうか。親の機嫌が悪くならないように、小さな頃から気を遣い、我慢して生きてきた大人もいっぱいいます。私自身も、我慢して置いてきたものを、今頃になって取り戻しているところです。
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小さい頃はレゴブロックが好きでよく遊んでいました。今思い返してみると、作るのが好きだったのか、壊すのが好きだったのか、邪魔されない時間が好きだったのか、どれも好きだったのだとは思いますが、遣っていること以上にその先を見ることの大切さを感じます。自分がそういった体験をさせてもらえたからこそ、今度は誰かのためにそうありたいと思います。【●】
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小学校低学年の頃までは空想の世界を果てしなく拡げて楽しむ力があったことを覚えていますが、いつしかそれが無くなったのは現実を知り知らずのうちに制限し始めたからなのかもしれません。娘も人形遊びが好きですが、きっと自分には見えない世界が観えているのだと思います。子どもとの関わりから自他ともに必要な環境を考えていきたいと思います。
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自分自身の好奇心が発する声と、恐怖心や怠惰な心が発する声と、どちらを聴いて行動に移しているか、いつも好奇心からの声と共に生きる事が、発達や人格を磨く事に繋がるのだと、学ばせて頂く機会となりました。まず最初に自分自身の好奇心を聴いているか。そして、好奇心と共に行動しているか、やってみて好奇心はどうなったか。
自分自身の好奇心に寄り添う意識を大切にして行きたいと思います。