人は自分の存在を認めることで、人の存在が認められるようになります。人は人格を尊重するには自分を含むすべての世界のことを認めていかなければなりません。人は自他を認めるときはじめて、すべてのいのちが同じ存在であることに気づくからです。
そしてその最初の認めるということに、「育ち」があるように思います。専門的には発達といいますが、発達というのは本能であるように自然にそのものが行うものです。
つまり人間を含むいのちはすべてはじめから「育つ」ようにできています。その育つということをよく内観すると、育つという行為は空気や水のように当たり前すぎて気付きにくいものですが何よりも人間を人間として尊重しているものであるのです。
そもそも自発性や主体性といいますが、そんなものは後から誰かによって引き出すものではなくそのものをもってすべての生き物は産まれてきます。生きていること自体が絶対的能動でありますから、その能動体として自分はそもそも発達しているということです。
その発達を認めていくというのは、そのものの人格を認めていくことに他なりません。発達を認められることで人格が認められ、その人格が認められることで安心して発達していくことができるのです。
発達を邪魔するというのは、人格を邪魔することと同じです。
つまりは、そのものの存在を丸ごと認めようとしないということです。すべての生命は誰に指示されなくても命令されなくても、自ずから然るがままです。それを認めないのは人間の浅はかな知識で刷り込むからであり、その刷り込みを取り払うならだれもが安心立命できる世の中になるはずです。
そういうものを幼いときに認めてあげることが、如何に自分を自分で認められ、その自分が周りを認められることになるのかということです。
人はひとたび自分の存在を丸ごと認められると納得するならば、周りの存在を丸ごと認め受け容れることができるようになります。自由になるということです。その自由を尊重することで人は思いやりが発露してきます。
お互いを思いやり、見守る社會が顕れることで徳の好循環がはじまります。幼児教育だとか高等教育とか、色々と言っている人がいますが本来人間としてどうあるべきかを正対するのが根本であることは道徳から省みれば自明の理です。
色々と雑音が聞こえてくる今の世の中ですが、よく耳を澄まし耳を傾け、心に聴いていきたいと思います。善いご縁をいただくことで学ぶことが限りありませんが、多くの人から学んだことをもっとシェアしていけるように精進していきたいと思います。
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「種子」には、その後のすべての基本設計図が埋め込まれているように、個々人にも、「人生の理念設計図」が埋め込まれているのでしょう。また、種子は気温などの「環境」を察知して芽を出しますが、同じように、人の成長にも適した「環境」が必要なのでしょう。元々用意されている自然の環境を、親の都合、大人の都合で邪魔しないことが大事です。「自由」とは「フリー」ではなく、「自ら(の理念設計図)に由る」ということではないでしょうか。
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以前と比べると認めることが増えてきたように感じています。それは場数が少しずつ増え出来ること、出来ないことが分かってきたからかもしれません。認められるようになったその事自体が自分にとっては大きな進化であり、育ちはじめだと思うとこれからどうなっていくのか楽しみなところもあります。
とはいえ、まだまだ頑になってしまう自分もいます。一気に飲み込めなくてもゆっくりじっくり時間を掛け、育ちの栄養を吸収していきたいと思います。【●】
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そもそも私の人格は、何の為に頂いたのか、そう思うとまだまだ明確な答えはありませんが、今は何かに導かれている感覚を得ています。
この導きを邪魔しない様に、自分自身を認めるのも出来ていることを認めるだけでなく、育つ先を認めて行きたいと思います。
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自分の中にある課題も自分だけのものと思わず、世の中のもの皆様のものと思えば、自分都合を挟まずに「させていただきます」という気持ちで取り組めるのだと思いますが、まだまだ我が強くこの体を自分の為に使っているのだと感じます。認める受け入れることが思い遣りであり強さだと、意識を変えていきたいと思います。