人間には意識というものがあります。
意識とは、自分がどのように覚醒しているか、自分がどのように心で感じているかという自己認識です。言い換えれば自分が感じていることの丸ごとでもあり、自分が正直に感じる全てです。
その意識をチェックすることで、自分がどうなっているのかを理解できます。
例えば組織というのはみんなで共有して集まり大切な目的のために協働する場ですがその組織の一員としての意識に有名な3意識というものがあります。
それは「問題意識」、「危機意識」、「当事者意識」というものです。
だいたいこの3つの意識の欠落が起きると、人のせいにしているうちに自分が発揮できず組織の中で自分も活かせず、気が付くと何もできなかったということになります。それはなぜかといえば、現実が自分の問題ではないからです。
人間は自分が納得していないことは人のせいにできるものです。自分はここまでやればいいというように自分の役割を自分で決めてしまうとそこから先は他人事になってしまいます。
これは幼少期から日本の教育で個人主義を徹底して刷り込まれ、なんでも一人で責任を持たされてきたからかもしれません。日本人は宿題も一人、担当も一人、役割も一人、なんでも責任は一人でやるようにという練習ばかりしてきています。みんなではあっても一緒にではない、つまりグループといいつつ個人の集まりに責任を課せては一人責任を全体を使って押し付けていくのです。
本来、チームというものはチーム責任ですから一人一人がチームというものの責任を持ちます。個人の分割された仕事の責任だけを持てばいいではなく、本来のチームの目的の責任をチームのメンバーがシェアしているのです。それはチームが自分であり、チームの責任が自分たちの責任なのです。
先ほどの問題意識というのは、自分の問題かということです、そして自分の危機か、自分事になっているかということです。つまりは自分だけは安全で安心であれば、別に組織や全体がどうなっても自分とは別の問題、別の危機、別のことであるという意識になってしまうことがここでの問題なのです。
例えば日々刻々と世界では様々な出来事が発生します、今なら中東のテロの問題、エボラ出血熱の問題、スコットランドの独立の問題、世界経済の動向のこと、あらゆることが発生します。その世界の問題に目を向けることができるのもまた世界の問題は自分事だと思っているからです。
気が付いたら戦争だった、気が付いたら伝染病に感染した、気が付いたら経済が破綻したでは、いったいどこで自分は何をしているのかということに最期はなるのでしょう。関係ないわけないんです、必ず自分に関係してくるのです。
だから寝ぼけている場合ではなく、覚醒していないといけないのです。
まずは健全な危機意識を受け止めることです。自分を活かしてくださっている世界がピンチなら、何よりもまずそのピンチのために何で貢献するかを決めなければなりません。問題がとても他人事ではないくらい共感できるなら、自分が何を守るかを決めなければなりません。そして自分が世の中を変えている一人としての責任を持つと決めなければなりません。
人は正しい責任を認識するときだけ、この意識改革ができるように思います。歯車としての自分勝手な押し付けられた責任ではなく、まるで一家、ファミリーとしての一家を支えてファミリーを助けるという主客一如の責任の自覚です。
真の楽観性は、絶望を受け止めたときであることはブログでも書きました。もしもと常に危機に備える心は楽観的になっていることと同義です。大丈夫だろう、まだこれくらいはいいだろう、自分一人くらいはという意識こそ己の中に在る真の敵なのです。
自我というものは常に虎視眈眈と我儘に自分都合を優先させ、自他を分けるように忍び寄ってくるものです。その分けたことから、無駄に自分を守ろうとし人に迷惑をこうむることを平気で行い一緒にの心の寄り添いが消失していくのです。
だからこそ常に一緒にいるために、自分の問題をどれだけの広さとどれだけの深さで捉えていくか、言い換えればどれだけ100パーセント自分の問題と言い切れるか、そのような独立自尊している自分を育てていかなければならないように思います。結局この世は、つながっていますから如何に好循環を創れるかが自分の人生の使い道です。つまり今では人類約70億80億人といわれる人たち丸ごとの「総力戦」なのです。
そもそも人が何のために生きるのか、教育をして一体人間をどうしたいのか、そういうことを問題にはしないことが本当の問題なのかもしれません。
畢竟、意識とは生き方のことです。意識がいつまでも変わらないのは生き方がいつまでも変わらないからです。生き方を変えたときのみ、人は意識が変わるのでしょう。自分の生き方が誰かのお役に立っているという自然の生き方をみんなができれば、世界の平和は守られるように思います。
一人一人の力が試される今の時代、意識というものを見極めていきたいと思います。
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何かに心を集中させていても、電話が一本入れば、意識は切り替わってしまします。新たな「問い」が発せられると、その答えを見つけるまで意識はそちらに取られてしまいます。結局、「どのような問いにどこまで応えようとして今日一日を生きたか?!」ということが日々問われています。そして、それは「自分はどうするのか?!」という問いでないといけないということでしょう。この「自分の人生への問いの甘さ、弱さ」をこそ問い直さないとといけません。
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どこか一人でやっている気になっていましたが、そんな訳ないことを実感し他のクルーの働きの凄さを感じています。日々のやりとりも思いの強さも見えないところで確実に何かしているのだと思いますが、そこを見ず目に映るところだけで判断していたのだと感じています。どこへ行っても誰に対しても同じ意識で見ていては見えるはずのものも見えないことを感じます。学ぶべきことはもっと身近なところにあることに気がつきました。何をしているのか、どうしているのかもっと自分から近づいていきたいと思います。【●】
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替えが効いたり選抜が出来たりするようなチームという意味と、一家というチームではまったく意識が変わってくると感じます。丁度、出張に出た日から子どもたち二人が嘔吐し熱を出しましたが、妻に任せるということではなく、良く調べ、シミュレーションし、妻、子どもを気遣う事、安心させること。と、一緒になって子どもを見守ることが大事なのだと感じました。また、仕事も同じで一家を、お客様を守るという覚悟と意識が行動を変えていくのだと感じます。発酵は両足をその環境を信じ、委ねたときに始まるのだと感じます。この感覚を大切にしていきたいと思います。
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心の情報共有という言葉の持つ感覚が胸に残りました。世の中の問題を見聞きしても事実を知り頭で理解しても、それは真の問題意識ではないのだと感じます。誰かの困りごとを聴いても、それを心で共感・受容し自分事として解決する気が無ければ共に歩むことは出来ないのだと思います。大事なのは知ることではないのだと、もっと深く自分を使わねばと思います。