自然農の大豆を観察していると、また新しい発見がありました。もともとマメ科に限らず、植物には一生のめぐりがあります。四季に合わせて、四季に沿ってその時期に必要な生を全うします。
その生のめぐりにはその生に必要なことを真摯に行っているのです。これは人間でも同じことが起きていますが、植物にもまた同じことが起きています。
例えば、冬から春にかけては「根をはります」、この時期は目立ちませんが地中にしっかりとした根を伸ばしていく時期です。その根が深いほどに、その後の成長が決まってきます。土の上から見ても何も変化がありませんが、土中ではしっかりとはりめぐらせていきます。
春から夏に向けては「葉が生い茂ります」、この時期の葉勢は凄まじく若葉から成長して青々と空に向かって広がっていきます。光や風を存分に浴びて光合成をして栄養分を蓄えながら成長していきます。見た目にもぐんぐん大きく成長していくのがわかり、活動の強さを実感します。
そして夏から秋にかけては「実をつけます」、この時期は葉勢は弱まり虫たちがたくさんその葉を食べていきます。余計なエネルギーは葉に使わず、実をつけるためだけに集中します。たとえ犠牲があるとしてもそれはあきらめて実をつけることだけに特化して他を捨てていきます。もう実をつける時期であることを悟った植物には迷いはありません。葉が食べられ落ちていっても気にもせず実になることを信じています。
最後に秋から冬にかけては「種をのこします」、この時期は種になるためにすべてのいのちをその種に傾けます。枯れていくのは、すべての生をその種に送るためです。生き残ろうとそのまま種も葉も残そうとするのではなく、文字通り全身全霊でその種に全エネルギーを送り込みます。その結果として枯れてしまいますが、それでも種を残すことが生き残ることだと自覚する植物たちは枯れることを厭いません。種になるというのはその生を全うしたということですから、次世代へと望みを託しては種だけになります。
簡単ですが、四季のめぐりにあわせて観察したものを書いてみました。人間もこれに近いものがあるように思います。根をはるために信念を醸成する時期、芽を出しては真摯に活動する時期、実をつけるために自分の犠牲を払い余計なものを捨て去るとき、そして種を残すために望みを託して全うするときという具合です。
その時期その時期、四季のめぐりにあわせて全力で生き切った証として次世代へと受け継がれていくのが生死のめぐり、そして生き方であり観念です。人の一生は真摯に生き切ることではじめて自分の生に出会います。自分探しなどしなくたって、真摯に真心で寸分惜しまず大義のために生きていれば自ずから本当の自分に出会っています。
植物たちも自分というものを持ち合わせませんが、真摯に生き切るとききっとそこに真実の自分の生に出会っているのではないかと私には思えます。自分をどうつくりあげていくのかは、その生き方によるものですが自然の生き物たちはそういう意味では本当に立派に生き抜いています。
身近な自然の生命から学ぶことが本当に沢山ありすぎて、古人たちはきっとここから宇宙のめぐりや自然の循環をも観得ていたのでしょう。悠久の流れや、広大なめぐりを直感できる自分を育てていきたいと思います。
コメント
植物たちの潔さというか迷いのなさは見習いたいものです。私たちには欲が多過ぎ、深過ぎ、慣れ親しみ過ぎてなかなか人生がシンプルにならないのでしょう。私自身は、随分回り道をしながらいまの道に入ったので、まだまだ、やり足りないこと、深め足りないことがたくさんあります。「人生の四季」とは多少ズレても、「自分の生の実」をより良いものとするために、いま一度、「自分が捨てきれない執着」としっかり向き合ってみたいと思います。
コメント
クルーから頂いた梨も枝豆も有り難い事を感じます。これまで梨も枝豆も何度も食べてきましたが、手間ひま掛けて農薬も使わず自然の中で育った成果をこうして頂けることに驚きと以前見た畑とはきっと見違えるものがある事を感じます。自宅の枝豆がゆっくりじっくり育つのを見ているからか、その苦労さが何倍にも感じます。食べてしまえば、口に入ってしまえば食べ方はどうしたって同じと思っていましたが、どういう思いで頂くかは自分次第でいくらでも変わる事を感じます。枝豆もこの後どうなるか分かりませんが、自然の恵みをおすそ分けしたいと思います。【●】
コメント
こう生きたい、と願う中で、実際に機会やご縁に触れ、過ごして行くと、自分自身が思っていた生き方の価値観を超えた自分自身の生き方に気付かせて頂いていると感じます。頑なに自分自身の生き方を決め込むより、機会やご縁が教えてくれていることを学ぶ姿勢が自然であり、大事だと感じます。また新たに自分自身を生まれ変わらせるチャンス。大事にして行きたいと思います。
コメント
とんぼ激減の話を聴き、唄に描かれている美しい心の情景が失われゆくことを悲しく思いました。田畑から頂く稲や大豆も、そこには沢山の周囲の生き物のいのちが込められていたのが本来の姿だと思うと、生き物のいない田畑からとれた作物は何なのだろうと感じます。周囲との繋がりや心の豊かさを忘れれば
生き方自体が薄弱になるのだと感じます。志があればこそ本気で根を伸ばそう葉を増やそうとし、我欲が強さではなく利他の心があるからこそ本物の実をつけることが出来るのだと、方向性を定めていきたいと思います。