世界遺産というものがあります。世界各地で世界遺産があり観光のメッカになっています。今年は国内の世界遺産をいくつか拝見する機会がありましたが、その都度その地の人の多さと雰囲気の荒廃ぶりに驚きました。
そもそも世界遺産とは何かといえば、1972年11月、第17回UNESCO総会で採択されました。条約の正式名は「世界の文化遺産および自然遺産の保護に関する条約」といいこの条約のもと作成される「世界遺産リスト」に名を連ねた場所、それが「世界遺産」です。その条約の内容は「国や民族の枠にとらわれず、世界各地の自然や文化財を、人類共有の財産として守る」ことだと書かれています。
これは文化財や環境を人間の都合で破壊するのをやめてもらうためにとはじめたことでしょうが、どちらにしてもそれを創ったものも破壊するのも人間が行うものです。人間が創造したものを人間が破壊するのですが、破壊しないことを目的としているのはわかるのですが本当に大切にしたいものは残るのかということには疑問を思います。
本来、そこでの人々の文化や暮らしが世界遺産であるはずが見た目の建造物やその場所がそうだというだけになれば見た目さえ維持できればいいという話になってしまいます。観光客が来るからとどんどん観光収入が増えてくると本来の目的がすり替わり気が付けば元の文化や暮らしが喪失しまうことになりかねません。それは守るものが何かということがズレてくるからです。
例えば、生き方や働き方を守るのは、単に見た目の形だけを守ればいいというわけではありません。「大切」にするものそのものが異なるからです。本来、先人たちが人間が傲慢にならないようにと謙虚に守り続けてきた生き方が、何らかの形で喪失して滅ぶ、もしくは滅びそうだから世界遺産が必要になったのではないかと私は思うのです
本来、変えてはならないものを自分勝手に変えてしまい変えるべきものをいつまでも変えないことが自然の法理に逆らっているということの教えなのでしょう。これは時の流れに反しますから必ず滅亡の一途を辿るのは自明の理です。
すでに今の人類の欲望の拡張と拡大は限界に来ていますからこれからの私たちの時代と子孫はその歪に向き合うことになりますから本当に大変なことで心配です。
「今の時代を自分たちの代で消費しつくす」という思想は悪循環を産み出す大変危険な発想ですから論語の「遠慮なければ近憂あり」であるように必ず目先の快楽により未来がいよいよ危うくなっているのです。
世界遺産というならば、生き方そのものを遺産にすることだと私は思います。それは生き方遺産です。生き方遺産があれば人は本当の今に生き、今が仕合せである本質を理解できるように思います。そして生き方遺産とは遺徳のことです。
人が今に生きるというのは如何に今に生き切るかですから「今、此処」を大事にし味わい尽す中にこそ本来の人としての仕合せがあると私は信じています。
そうしていれば今、此処に満たされますから本当に遺していかなければならない遺産とは、先祖がここまで私たちに大切な環境といのちをつないで遺してくださった徳に由るものだと気付くのです。
そういう世界の遺徳を守る、つまり世界遺産を守るというのはその遺徳を守る謙虚な生き方を私たち自身が守ることです。だからこそその遺徳遺産は一人一人の生き方の中にあることを忘れずに今日も社業の実践を積み重ねていきたいと思います。
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世界遺産と認められずともそれぞれの場所が世界遺産であり、地球の遺産なのだと感じます。では、自分自身が住む町のことをどれだけ知り、何を大事にしているだろうかと思うと、ただそこに住むだけで、せいぜいお祭りに顔を出すくらいしか地域に参加していません。
遺徳遺産と考えた時浮かぶのは中江藤樹です。自分と同じ年頃の時中江だったらどうしていたかと思いを馳せ、言動を省み実践に変えていきたいと思います。【●】
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四季がめぐり、万物を生滅してやむことがないのは「天の徳」、草木や穀物が生じ、鳥獣や魚類が繁殖し、人をして生命を養わせるのは「地の徳」、祖先が人道を設け、王侯が天下を治め、家老や武士が国家を守り、農民が農業に勤め、工人が大小建築物を作ったりして、人生を豊かにしているのが「人の徳」であり、この三才の徳に報いることが人道の極致であると二宮金次郎は言いました。また、内村鑑三は、この世の中は決して悪魔ではなく神が支配する世の中であることを信じ、失望ではなく希望の世の中であることを信じ、悲嘆ではなく歓喜の世の中であるという考えを我々の生涯に実行して、その生涯を後世への遺物としたいと言いました。諸行無常のなかで、命のつながりの歴史とは何であるかを再確認したいと思います。
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今の時代は写真も動画もあり記録を残そうと思えば幾らでも残せますが、書物でも写真でも動画でも遺せないものが遺徳だと思います。同じ土の上に立ち同じ息を吸う中でしか伝わらないもの、だからこそ受け継がれてきたものを絶やさぬよう自分たちの体を通して継承していく必要があることを感じます。受け継げているものはあるか、遺したいものはあるか。子どもを教化するのではなく自分の生き方を常に省みたいと思います。
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守ると言っても何を守るのかをよく肝に命じなければと感じます。家族も、社会も、会社も、クジラも、何のために守るのか。ただ存在を守るのではなく、それぞれが大事にしている本質ごと守る為には、そのものとの対話が必要だと感じます。
守るという動作から入らないように注意して行きたいと思います。