先日、百姓コーディネーターからの研修の中で「苗半作」のお話をお聴きしました。この苗半作とは「御米の出来は苗育てで半分が決まる」ということだそうです。
そしてこれは御米に限らずすべての野菜や植物がその苗の育ちの善し悪し によってその後の作物の生育に大きく影響するということです。
自然農で野菜を育てていると、最初の苗の環境がどのようであるか、その苗にどれくらい配慮したかでその後の主体としてのいのちの育ち方もまた変わってくるのははっきりしています。
たとえ大きな気候変動にも耐え忍ぶことができ、病気や虫がつきにくくなり、健康でたくさんの実と種をつけることができます。
言い換えれば、健やかで逞しい一生を送ることができるのです。
この苗半作の時期は人間でいえば幼児期であり、如何に幼少期に健全に健康な環境があったかがその後の人生に大きな影響を与えてしまうということです。
できるならばすべての親ならばみんな子どもたちには自然のままに健康に強く逞しく元気に育ってほしいと思います。色々な困難があっても、それを前向きに乗り越えて立派な実と種をつけてほしいと願うものです。だからこそ私もこの「苗半作」が何よりも重要ではないかと思います。
来年は百姓コーディネーターのご協力のもと、この智慧を学び直せるのが愉しみです。
またこの苗半作を改めて考えてみると、今取り組んでいる自然養鶏の烏骨鶏の育雛につながってきます。烏骨鶏も季節の変わり目、春先と秋先に卵を温めはじめるのですが産まれた雛は食べ物はまだありますが気候はとても寒暖差が激しい時期に育まれます。
寒暖差が激しいということは、それだけ環境の変化を受けているということです。その環境の変化の中で周りに関わる暖かい真心を受けているということです。厳父と慈母のもと、子どもは健全に育つといわれますが何が厳父で何が慈母だったのかというのを今回のことで悟った気がします。
自然の智慧というものは、本には書かれませんが確かに存在します。その知恵をどう継承するかというのは本能で行います。その本能を喪失するような知識は果たして世の中を救う本当の智慧なのかというと私には大変疑問に思います。本能が減退していない人が持つ知識というものが本物の洗練された知識なのかもしれません。
引き続き、自然をお手本に先人の智慧を継承しつつ洗練された知識を形にし世の中に還元できるよう日々の実践を深めていきたいと思います。
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「力の入れどころ」を見極めるということはとても重要なことです。ものごとは、原則的に「初期段階」が重要であり、それがその後に大きく影響し、将来を左右します。しかし、現実には、最初に手を抜いておきながら、後で挽回しようと必死になる姿がよく見られます。「ここさえ押さえておけば」というところを見極めることが、ほんとうの智慧であり、自然の理に則った生き方であると言えるのではないでしょうか。
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大豆を育てながら感じるのは、鉢一個見れる範囲で行っているといくらでも手を掛けられ、遣り過ぎなのではと感じることがありました。遣りすぎでもずっと手を掛ければ育っていきますが、本来の持っている力を発揮しているかは分かりません。計り知れない力を持っていると引き出す方へ廻る必要もあったのではと感じています。すでに収穫出来るまでになりましたが、囲いこむように見るのではなく、今回の体験を次に活かしたいと思います。【●】
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物事を見るとき、人事を尽くしたか、やることはやったか、と見ても、自分ごとで考えてみていて、やれた、出来たと思ってしまいがちな時があると感じます。理屈ではそうかもしれませんが、この考えの世界は自分都合でのことだと感じます。
いつもどうだったかを振り返る時、自分を振り返るよりも、相手の気持ち、作物の事実を見ているかどうかなのだと感じます。いつも軸足が自分か、周りか、どっちに軸足が置かれているのか。
そこが要諦だと感じます。
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子どもとの関わりのなかでも、どれだけ広くどれだけ先までみてあげることが出来ているかで一つの物事への対応の仕方が変わってくると感じます。更にはそれが自分本意、自己満足からのものではなく子ども自身から湧き出る意欲からのものにしてあげたいとも思います。そして何があろうとも一円観、最終的には自分の意識・覚悟によって見守り信じてあげられる自分でありたいと思います。