心で感じる世界に直観というものがある。
もともと知識とは後付であり、理論も何かを合理的に理解するために造られた産物であるからその前に元々あったものが本質ということになる。
つまりは、地球誕生から脈々と流れ出でている叡智のようなものであったり、最初から存在していた自然の掟のようなものが直観なのであると私は思う。
自然の中で暮らしていけば、そういう直観的な暮らしとはそもそもその風土や環境の中で培われてきた私たちの順応性というようなものであろうと思う。
つまり直観的センスによって、様々な偉大な自然とぴったり息をあわせて生きてきたのが生命の歴史のことである。
そういうものとは別に人間のみで歴史をねつ造し、人類史のみをまるで地球の歴史だと勘違いしているから今では色々な周囲の存在や価値に気づけないほど鈍ってくるのだろうとも思う。
明治維新から近代にかけて、如何に全体を合理的にすることで短期的なパワーを得るかということが大事なことになった。西洋が誇る科学という自然を真似た物的革新技術を日本も早く取り入れようとした御蔭とツケが同時にこの私たちの今の世界には存在している。
御蔭としては、ここまでの技術大国になり世界に肩を並べるような経済大国にまでのし上がることができた。しかしそのツケは、私たち日本人としての暮らしや生活習慣など生き方として重んじてきた自然の叡智、バランスが狂った中で人々の心が荒廃してくるようにもなった。
なんでも合理的に、理屈にあわないものは取り除こうとすることは確かに早く結果をだすにはいいのかもしれない。しかし悠久の流れの中で永続的に発展と繁栄を目指した私たちの先人からの遺志は豊かさへの感謝というものを柱に様々な日本語の中に入り込んで思想を象ってきたのである。
私たちは日々に使う言葉を西洋のように合理的には考えなかった、つまりは渾然一体とした魂のようなもの、つまりはそれを「言霊」であると定義し大切に使ってきた。
西洋から取り入れた言葉にはそういうものはない、単に見たものを頭で理解できるように語られそのように言語化されてきた、自然から離れた場所で言葉を理解したことが根幹の思想、直観を鈍らせているのである。
私たちの風土環境の直観はそうではなく、瑞々しい感性と美しく真を照らした日本語の中に清く明るい正直な心、つまりは道徳倫理といった我々が目指した自然との共生の叡智そのものである生き方が凝縮されているのである。
こういうグローバルな社会の中で如何に分け合い地球の中で皆が共生できるのかを思うとき、私たちは世界へ向けて日本人の言霊を信念とともに行動で発信していかないといけない。
今こそ、一人ひとりの生き方がすべてを決める本源的な時代に入っているのだと思う。
私はあくまで原始的な直観を信じて、これから新たな扉を開いていきたい。