循環している実感

私たちは体験をすることで様々なことが細分化されていくものです。それはパソコンに溜まってくるメールのように次々に増えていくものです。そうやって増えて細分化したものが「分かれて」しまうともともとはじめに一つだったものが分からなくなっていくものです。

本来、二つ以上のものを合わせるというのは原点に回帰するということです。それは右か左か、善か悪か、あるかないかといった物質的な観点と観念で物事を判断するのではなく、思想のように「丸ごと」合わせて分けないところで理解するのに似ています。

そしてこの二つ以上のものを一円融合させようという意識があってはじめて平和が続くことのように思います。循環というものも、偏らないということであり、それは流れ続けていく中で一つのものにしていくから循ることができるのです。まるで川が大河になり海になり雲になり雨になりそしてまた川になるように、本来あったものは流されていく中で原点回帰していくのです。

しかしその流れを止めてしまうようなことをしてしまえばどうなるか、それは分かれたものを無理に処理しなければなりません。自然から離れれば離れるほどに分かれてしまいますからその分かれたものをまた分けて分解するとさらに悪循環を創出してしまいます。

例えば水の処理場のように、土や生き物たちの浄化力を活用せずコンクリートで固めた水道を用い、今のように洗剤や油を多用するものを流せば当然浄化が追い付きません。それを何重のフィルターや薬品で乗り切ってもその無理をした分のゴミが出てしまいます。そのゴミをまた分解するために別の処理場へと運ばれ・・・などと際限なく無理が続きます。

本来、一つに合わせるということはとても楽しいことです。朝晩が一日であるように、天と地が和合するように、音が歌を奏でるように一つになることをすべての生き物たちは喜び、いのちは仕合せを感じるのです。そしてそれが循環している実感なのです。

私たちは祖神から八百万の神々が平和を築いてきた民族の歴史を持っています。たくさんの神々が和して大和を体現してきました。それは分かれていても一つであるという考え方、英語ではワンネス、漢字では渾然一体というのかもしれません。

そういうものを如何に産出して発展発達を促していくか、そこに私たちの使命があるようにも思います。悠久の平和を祈り願う先祖たちが遺してくれた意志を受け継ぎ、正しいことよりも楽しいことを広めていきたいと思います。

  1. コメント

    「一年、一カ月、一日」は、それぞれ自然のなかにそのサイクルがありますが、「一週間」というサイクルは自然にはありません。しかし、私たちの生活は、ほとんどがこの「一週間」というサイクルで流れています。毎週日曜だけの畑仕事では、野菜のリズムと合いません。また、日の出の時間に関係のない「時計の時間」による生活も同じです。循環を実感するには、生活のリズムももう少し工夫し、円環連鎖による一体感を生活実感として体験しておく必要があるのではないでしょうか。

  2. コメント

    頂いたご縁を巡ると何か不思議なものを感じます。知らなかった人と知りあい、仲良くなりこうやって人が集まれる場所を用意することも役割なのかもしれません。仕事も年齢も関係なく、志を同じにした人ならどこででも何をしてても、離れていても一緒にやっている感覚を持てるように感じます。この出会いをまた他の人へも伝えていきたいと思います。【○】

  3. コメント

    運動会を終えて、子どもと大人の距離感、子ども同士の距離感、大人同士の距離感、それぞれに絶妙なつながりを感じます。
    また、自分の子だけを見守っているのではない感覚に、不思議なつながりを感じます。終わってみると、大きな家族のように、温かさや、寄り添いなど、今までの運動会で感じたことがない大きなものを感じる機会となりました。寄り添うことも分けないこと。思いやることも分けないこと。一緒にやるのも分けないこと。子どもとおとなで分けないこと。運動会自体も、「見守る」ことから分けないこと。その体験をさせてもらえたことをアリ有難く受け取り、そして発信していきたいと思います。

  4. コメント

    全ては因果応報、繋がりの中の自分であることを感じます。
    今の自分の心の声を聴いてみたいと思います。ありがとうございます。

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