昨日、久しぶりにある方からフリーダイバーのジャックマイヨールのお話をお聴きしました。以前、映画グランブルーやガイアシンフォニーで拝見したことがありましたがご縁あった方からの直接のお話ははじめてでした。
私がジャックマイヨールの好きな言葉に下記があります。
「自然と寄り添い、自然と調和したとき、無限の可能性が生まれる」
これは人為的な知識よりも、自然界の智慧にゆだねた方がより偉大な力をお借りすることができるという意味ではないかと私は思います。西洋からの人為的な知恵は、原子力を創ったり、大量破壊兵器を創ったりします、しかし自然の持つ地震や噴火、雷や台風などの力に敵うことはありません。
水一つですら創れませんし、小さないのち一つも創れない人間が、自然と離れれば可能が次第に狭まっていくばかりなのです。大いなる自然に心身を預けていく中で得られる智慧こそ本物の智慧のように思います。いつしか自然への尊敬や畏敬、崇拝を怠り始めたところから人間は謙虚さを忘れ傲慢になってしまったのでしょう。
また具体的に、ジャックマイヨールは未来の人類は水陸両棲人間になれるという信念を持っていました。「イルカになりたい」それが彼の夢であり、彼の哲学であったといいます。そしてこんな言葉を遺しています。
「イルカは高度な“知性”を持ちながら、自然と完全に調和して生きている。その生き方から学ぶことに依って私達も、自然と調和する道を知ることができる。」
イルカと心が通じ合ったジャックマイヨールのイルカから学んだ生き方の要諦が言葉に詰まっているように思います。私に言わせれば、人間の方が自然に近づくのならば必ずあらゆる自然と調和し対話していくことができるということです。
自分たちの方が万物の霊長であるという傲慢な意識や、自分たちの知識が優れているという勘違いをそろそろ見直し、46億年もパートナーであった地球との和合する生き方に転換していく必要を感じています。
最後にこの言葉で締めくくります。
「ただサイズが大きいだけではない。存在として、知性として、大きい。生物の器官には無駄はない。ある器官が発達しているにはそれなりの理由がある。そして、クジラはとても大きな脳をしている。」
「では、クジラはあの大きな脳で何を考えているのか?物質的なことは何ひとつ考えなくていい。とすれば、あとは哲学的な瞑想しかないじゃないか」(クジラが見る夢 池田夏樹著 新潮社)
私たちが及びもしないクジラなどの海の王、そして巨樹などの木の王、あらゆるものを畏敬してこそ宇宙の心を感じられるのかもしれません。今一度、温故知新の真実をこの人生で成し遂げてみたいと決意しました。
ありがとうございます。
コメント
対話は何も人同士だけでなく、自然とも本来可能なのだと感じ対話の奥深さを改めて感じます。目の前にある草花に対してでさえ、こちらが気持ちを傾けさえすればいろいろな声を発していることに気付きます。子どもたちが虫や木や花の声を聞いているのは対話しているからなのだと、そのことが今ようやく分かりました。透き通るような心の持ちようを大事にしていきたいと思います。【●】
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人間の根本的な立ち位置を変えないと、宇宙や自然の実体はつかめないでしょう。地上に、これだけの種類の動植物が創られ?生存している意味、共存している意図がどこにあるのか。それぞれにとって「生きる」とはどういうことで、そこにどんな目的があるのか。他人を鏡として自分を知るように、自然を鏡として人間を知っていく必要があるのではないでしょうか。知能、知性以外の要素にも、目を向けないといけないのかもしれません。
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人間の持つ知識を軸にして生き物の賢さをはかっていてはデキレースであり、それはただ人間が安心したいだけなのだと感じます。都合のよい見方はそろそろ止めなければと思います。昨日の川のように今日の青空のように清々しい心で一日に臨みたいと思います。
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求めるということひとつをとっても、人間と自然の生き物では全く違うように感じます。循環の中で求めるモノは、頂いて、還すことが当たり前ですが、自分は果たして還すことが出来ているのか。求めてばかりいないかと振り返れば、頂いてばかりのように感じます。ただ面白いのが、糠との関係です。あれは頂いているのか、与えているのか分からない、毎日のやりとりだと感じます。
ああいった循環の世界を見る目をもっと育てていきたいと思います。