生き方を変える

何かをするという行為に、心で決めることと頭で判断するというものがある。

例えば、自分の行動を変えると決めることは、自分の心でどうあるべきかその生き方を決めるということであり、頭の中で判断したこととは同じことではない。

頭で判断したものは、心で決めた生き方とは関係がないから別にやったりやらなくってもその時の相手次第や状況次第でいくらでも自分都合で判断することができる。

しかし心で決めるとなると、自分の決めた約束、つまりは生き方そのものをどうあるかということであるからそれを破るということは自分で生きないというすべて相手任せの自分ということになり本来あるべき自分のあり方は関係ないということになる。

例えば、正直に生きると決めるということは相手がどうしようが相手が何を言おうがそして状況がどうなろうが自分が自分で決めた生き方としての正直を最期まで遣り抜き貫いていくということができるというものである。

それを決めたはずが、できませんでしたというのは正直ではなかったということを自分から話しているのでありそれは生き方を間違えましたと自白し続けているようなものである。

自分で言っておきながら、それをしないというのは本当は恥ずかしいことである。誰でも、自分で言ってやらない人のことを信頼したり信用することはない、そんなことは誰でもそう思うはずである。

それなのに自分は周りを見て、やっているように見せようとしている自分には気づかないで平気で恥ずかしいことを繰り返す人がいる。

そういう今までの生き方が実は人として恥ずかしいと思って、これからは二度とそういう生き方はしないと決めることが本当の反省というものである。

二度としないという言葉は、その諸動作や事象のことではなく生き方のことである。

例えば日々のことでは、決めたルールを破ってしまったやまたミスしたや、やってしまったや、またまた遅刻したなどいろいろとできない理由を何度も何度も言い訳のように平気で並べる人がいるけれど、問題はそんな些細な其処の事柄ではなく本来の自分の生き方が常に間違っているということである。

そういう風に生きていて大丈夫ですかと尋ねられ、しないと言いながらまたやりましたという生き方をずっと繰り返しているということなのである。そしてそれなのに人前ではさもやっているように見せるとなればそれはそれこそ問題なのである。

自分で立とうとする気がないもの、つまりは自分が心で決めて遣り切ろうとしない人は自立することはない。自立とはあくまで誰のせいでもなく、自分から立つ者のことを言い、いくらどういう状況があったにせよ立たされようとするのでは自分らしくも自分の存在も貢献に結び付けることができないからだ。

そして社会とは、互いに自分で決めたルールという互いの自分自身との約束の上に成り立っている。

互いをチラチラ意識してやろうとするのは、まず自分で立とうとするよりもその人によって立たせてもらおうという依存心からそうなってしまうのであろうとも思う。

自立するには、自分から決めることと、自分から律すること、そして最期まで遣り切る事、その全てを自分の心で決めたままであるかという、あり方の方を定めているからできるのである。

能力的にできるや、個性としてそうなっているかなどは問題ではなく、要は生き方を変えられるかというのが自分を変えるということなのである。性根を叩き直すというのは、生き方そのものを学び直すという意味でもある。

変化の波の中で人は表面上の変化にあわせようとするけれどそうではなく、今までの自分と決別し新しい自分で生きることを人生が変わったというのである。

これは誰の人生でも同じく、そして個々に等しく、生き方を変える決心がその人を新しい人に変えてしまうのである。

一生懸命に真摯に生きる人に出逢うことで、素直に自分が恥ずかしいと思うことから憧れのように新しい生き方に出逢っていく。

人生は面白いことに、出会いが人を変えていくのだと本当に感じる。

私は、これからも色々な生き方に触れて素直に吸収していきたいと思う。新しい未来が、この今、この瞬間に顕われている心に寄り添い生きていこうと思います。

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