今の時代は如何によく見せるかで価値が決まってきます。たとえば、新しいのではなく新しそうならば新しいと思いますし、見た目がきれいであれば中身もきれいだと思い込みます。
しかし実際は、中身とは異なっていても見た目をコーティングさえすればさも良いもののように価格を決めては提供していることがほとんどです。
かつては、本物を見極める目を持っていました。何が本物であるのかを昔の人たちは知っていました。自然に精通していた人が多かったのもあるのかもしれませんが、本物の見分ける力があったように思います。
食べ物一つをとっても、本当に発酵によってつくられた味と、合成甘味料と香料により醸造加工しつくられた味もすぐに味分けができていたのです。今では、本当に発酵したものがほとんど流通しなくなり、幼いころからそれを本物だと刷り込まれ、思い込まされてきていればもはや偽物の方を本物だと思い込んでしまいます。
今の時代は、本物が偽物にとって代わられている時代です。それくらい昔からの本物は消失し、人間が見た目を誤魔化し本物そっくりにコーティングしたものを信じ込んでいます。
このような時代で、本物だといくら言い張ってみても他と見た目が変わらないのだから本物であるかどうかなどを考えることもありません。むしろ古臭いと毛嫌いする人たちもいます。
私たちが本物を見極める力とうのは、本来の持っている本能の力です。その力が減退してしまえば、自ずから社會に本物が減り続けます。
本来、本物とは自然体です。自然の時間と自然の手間暇、自然のプロセスでできたものが自然ですが人が時間も手間もプロセスも省けば不自然なものばかりをつくるのでしょう。
本物に触れるのは、自分がいつまでも本物であるためです。
何か本質か、何が本物か、自然を使ってかんながらの道で表現していきたいと思います。
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「パリで多くの優れた画家が育つのは、優れた美術学校がたくさんあるからではなく、本物の絵がたくさんあるからだ」と言われます。ある「高み」にまで達したものを毎日のように見て、その「高み」を自分の目標に重ねあわせていく。その無意識の営みこそが一流を育てるというのです。ある「高み」にまで達したものを毎日見ているか?!日頃接しているか?!偉人の生き様や言葉の他、日々使う道具など身の回りの環境も大事かもしれません。
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高価でも本物に一度触れるとこれまでは何だったのかと思う程にその違いを感じます。
見た目は取り繕うことができても自分で自分を偽ることはできません。本物に触れ養う自分が本物でなければ子ども達に遺すものは見せかけになってしまうのだと感じます。お金を出して本物を取り揃えようとする前に自分自身が本物に近づく努力を怠らずありたいと思います。【●】
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物に溢れた今、本物を購入すること、手に入れることが難しいように感じます。なぜ物を買うのか、そこにコーティングとしてではなく、自らの道を追求する為の買い物であるかどうかも大事になってくると感じます。買う買わないではなく、本質を追及しているか、本物に近づこうとしているか。そこを大事に見ていきたいと思います。ややもするとぶれてしまいがちですが、切っ掛けの動機はいつも本質から来ているはずなので、動機の取り違えと頭での欲への切り替えに気を付けて、歩んでいきたいと思います。
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昨日は非常に良いタイミングで自分と向き合うための言葉をいただきました。何故わざわざ?とも思いましたが、それを言うか言わぬかはどちらが不和を生むのかわからないとも思えます。受け取る側の心次第、言葉を咀嚼して味わってみたいと思います。このような状況になるのも、まだまだ観ているものが本物風であって本物でないからなのかもしれません。もっと本物に触れ、魂を磨いていきたいと思います。