昨日、大隅半島にある樹齢400年のタブノキの巨樹を見に行きました。一本だけで一つを杜を形成し、そこに沢山の生き物たちを見守り活かす姿に心癒される思いがします。
もともとタブノキというのは、古代では信仰の対象となった樹ともいわれ祖先はその樹霊を尊び大切にしてきました。それが霊(タマ)の木であり、それが タモ、タブ、タブノキと変化したとも考えられているそうです。
万葉集の大伴家持の歌、「磯の上の都万麻を見れば根を延へて年深からし神さびにけり」の都万麻もタブノキだと言われています。これは意訳すると、(磯の上にそびえ立つタブノキは根を深く広げて年数が経ちなんと神々しいものだ)というものです。昨日のタブノキにも神々しさを感じました。
もともと神社の由来もそうですが、お社があるところが神社ではなく神々しさがあったところに後から神社ができたのです。社殿は後付であり、元来そこに神が宿る自然崇拝、自然信仰があったというのが私たちの祖先たちの生き方です。
タブノキは古代の私たちが神様が宿っていると信仰し、大切に尊びその樹に祈ってきた思いと願いがあります。どうしてもタブノキを観ていたら、その昔の私たちの生き方に触れている気がします。
かつて今のように人間の都合だけで生活していなかった時代、自然の時の流れと自然の音と自然のめぐりと自然のひびきに生きていたころ、私たちは生き方のお手本として悠久の哲学者ともいえる巨樹に沢山のことを見習い教わり心を磨いていたのかもしれません。
ご縁をいただいたその巨樹から新しいいのちをお預かりしました。大切に見守り次世代へと譲っていきたいと思います。
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日本の神社は、門のない「オープンシステム」であり、神聖な「場のシステム」だと言われます。そこに結界を張ってその神域をつくっているのが、御神木を中心とする樹木であり、その土地を護り、そこに住む人々を浄化しつつ、ずっと見守り続けてくれているのでしょう。人々が生まれ変わり、あるいは初心に帰れるような、そういう「場」というものをもっと生かしていく必要があるのかもしれません。
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400年前、きっとそのタブノキが芽を出した時、みんなで喜んだのかもしれません。そしていつからか見上げるようになった頃とでは姿は違うのでしょうが、見守る思いは変わらずそこにずっとあったのだと思うと時代を超えて同じものを観ているのかもしれません。
今は誰からも見向きされずとも、しっかりと地に足の着いた実践を積んでいきたいと思います。【●】
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旅行先などで神々しいと思えるような場所に出逢うことはありますが、日常ではそんな思いになれることは少ないと感じます。そのような場所が少なくなったのか、忙しさや心の余裕が無くなってしまっているのか、きっと両方なのだと思います。本当に神々しいのは400年生き抜いてきた樹なのか、それを信仰して自然に寄り添ってきた人間の心の方なのか。場や物という条件に寄らず、どんな時でも謙虚でいられるようになりたいと思います。
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巨木を目の当たりにすると、地球やこの生命体が何のメッセージを発信しているのか、、明らかに
何かを感じますが、何かはわかりません。ただ、その存在に対する畏怖を強く感じます。昔の人には、手を海につけると方角が分かったり、メッセージを受け取れたりしたといいますが、今自分が見ている世界が全てではないのかもしれないと体感から感じられる機会となりました。求めたり与えたりという次元だけでなく、一体になる次元を大切にして行きたいと思います。