関心という絆を結ぶ

自然界には絆というものが存在します。

それはつながりとも言い、何かと何かが常につながっているという関係のことです。物理的に一緒にいるだけではなく、意識的に一緒にいるというのもつながりです。集団でいることや家族でいることもそうですが、つながりを大事にしていくことで種を守っています。

そしてそのつながりとは関心とも言えます。如何に関心を維持しているかということです。関心とは日々に気にかけ日々に心配し、日々に思いやり、日々に祈るということです。

人は自分の関心にのみ関心がある人と、他人への関心を持つ自分に関心がある人がいます。前者は自己中心的で雑であり、後者は自他中心でありきめ細かいものです。自分中心であるということが雑なのは、つながりを感じる気持ちが欠けてしまっているからです。自他中心の人は常につながりを感じながら事物の関心を忘れないので真心が入り丁寧なのです。

関心の持ちようを絆に換えていく人たちが日々に結び合う人たちです。相手への思いやりは常に関心を持つ心を育て、絆を結ぶ実践を積み重ねることになります。

かつてマザーテレサが「愛の反対は憎しみではなく無関心」と言いましたが、これは自分中心になることで愛が消失するということを言っています。他人の気持ちが分からなくなるのはそれだけ自分の関心にしか興味がないからです。自我を優先し続けていると孤独になるのは、絆や関心の中にある愛に気づけなくなっていくからです。

そんな時には、感謝の心や素直な心に立ち返ることで他人への大きな関心という愛に目覚め直すことが善いように思います。つながりがあるから人は救われ、つながりが消えるから人は救われないのです。一人ではないという実感の中にある豊かさは決してお金では補えないのです。

そして日々に人の心配をするのは関心を高めていくことです。

畢竟、関心とは自他一体の関心であり法則では鏡の法則とも言いますが自分のことを知ることがもっとも大切であり、その上で自分を高めて活かすことが何よりだからです。自他への関心、全体への関心を育めば自ずから自分のことを知り、自分の意志を強くしていけるからです。

これは老子の「人を知る者は智なり、自ら知る者は明なり」につながります。つまり他人を知ることで自分の鏡にし、自分を知ることではじめて自分を他人の役に立てていけるということです。

常に自分の心を見つめて絆を結び、いつも謙虚さに気づいていきたいと思います。

  1. コメント

    すべてのことに、同時に関心を持つことはできません。また、隣に居ても、無関心であれば、いないのと同じです。「関心」は、その瞬間瞬間に変わっていきます。心配しているときは、ずっとそこに関心があり、悩んでいるときは、そこにしか関心がいかないかもしれません。人は、その時どきに「関心のあるものと一緒に生きている」のではないでしょうか。庭の花に関心がある瞬間はその花と生き、お客様に関心がある間はそのお客様と生きているのでしょう。そして、その「関心の強さ、深さ」によって、それぞれの心の距離感が違っているのでしょう。その人の「関心」が、その人自身を現し、その人の人生の風景を現しているのではないでしょうか。

  2. コメント

    ここ数日体調を崩していたからか関心が自分に向いていることを感じています。ちょっと崩したくらいで傾くようでは、日頃もきっとそうなのだと思うとその事を教えるために長引いていたのかもしれません。きっとこうだろうと推測する前に聞くことを大事にし、こんな時でも「大丈夫?」と声をかけられる自分でありたいと思います。【●】

  3. コメント

    四六時中一緒にいて何かあれば直接的にメッセージをくれる自分自身に対しては、気にかけずとも自然に関心を持ってしまいますが、他人への関心はそうではないので難しさがあるように思います。これも自分という人間が自分の意識でのみ生きていると勘違いするからそう感じるのかもしれません。どれだけの周囲の支えがあって今の自分があるか、傲慢な生き方を正していきたいと思います。

  4. コメント

    シャッフルを通して、ただ、その時の役割を果たす仕事と、次の人がやりやすいようにと形に残す働き方との違いを感じています。繋がりを感じて働くことの幸せは、1人の仕事にしてしまっては味わえないからこそ、もっと意識も固定概念もシャッフルして行きたいと思います。

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