今年は樹木のことに興味があり、樹木から生き方を学び直しています。
もともと私たちは地球に住んでいます。植物の混植をしてみたらすぐにわかりますが同じ土に沢山の植栽があると植物は元気になります。それが多様であればあるほどに、元気さは増し美しい花を咲かせます。ここから私は同根であるということを学びました。
そして同根であるということは、私たちは同じ葉を持つということでもあります。ゆずり葉という葉もありますが、同根なのだから自分がしてほしいことは相手にもしてあげる、自他は一体になっているのだから皆兄弟ということです。だからこそ光も葉も水も土も分け合い与え合い譲り合いながら存在しているのです。
樹木の生き方を通して私が一番感じるのは、地球の一部としての姿を実感することです。特に今年は巨樹とご縁が沢山ありますが、巨樹には樹霊があり、その生き方を直感すると何よりも与え続けて譲り続けて杜になる姿が観えます。
未来のために今、何をすべきかは巨樹は言葉にはしませんが多くを語ってきます。昔は巨樹の精霊の下に長老たちが集まりどう生きるべきかを語り合い永続して暮らしを維持してきました。自然の中に生きていくものがもっとも長く生きられることを知っていたからです、人工的な中に住めばもうもとの野生には戻れません。それは動物園の飼育された生き物たちが二度と野生に戻れないのと同じです。
私たちは野生を取り戻さなければこの先の大異変に生き残ることができないかもしれません。何が野生か、何が本能か、何が自然か、周りにまだ遺っているものから学び直す必要を感じます。
今の時代は、資源を貪り自分たちの世代で使い切ろうとします。子孫へ譲るのではなく、自分が全部消費しようとします。これでは国は亡び、世界もまた消失するのは火を見るよりも明らかです。
昔、仏教をインドで広めた王にアショーカ王がいます。この王は、全国各地に石碑を立てて全国民に「五本の樹」を植えることを記します。そこには、こう書かれています。
「薬効のある樹。果実のなる樹。燃料になる樹。家を建てる樹。花を咲かせる樹。国民ひとりひとりが5本の樹を植えそれを森として見守りなさい。そしてそれを決して自分の代で切ってはならぬ。」と。
もともとは暴君だったそうですが悲惨な戦争を体験し、改心して平和の維持につとめた王だそうです。子子孫孫のために陰徳を積み、譲ることで平和を創造する。国民たちとともに平和を願う王の気持ちが5本の樹の話から観えてきます。
理念というのはこうやってわかりやすく伝えるものであることを実感するとともに、物言わぬ樹木から学んだアショーカ王の観察眼に頭が下がります。私自身も今は、郷土樹のタブノキ、薬効の銀杏、楠を育てています。
いつの日か5本の樹を植えて子どもたちのために譲れる自分を育てていきたいと思います。
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西洋の「石の文化」に対し、日本は「木の文化」と言われます。木造の家屋や家具等の木製品だけではなく、日本人は、樹木そのものとも共に生きてきたのでしょう。前栽の松や梅、神社の大杉、小学校の楠、お寺の銀杏、土手の桜、里山など、日々の生活も樹木と共にありました。また、「根を張る」「幹と枝葉を分ける」「年輪を刻む」など、人の生き方も樹木から学んでいたのでしょう。どこまでを自然と呼んでいいかはわかりませんが、田舎でまだこのような生活をしていることを有難く思います。
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「自分の代で切ってはならぬ」。教訓として思いやりからくるその言葉に優しさを感じます。そして、木を植える体験やその想いを汲むような経験はしているだろうかと振りかえる思いです。今実践していることが子どもたちへ繋がるようにと思う、その譲る気持ちがどれだけ思えているだろうかと思うと、自分のためになっていたり、形だけになっている時もあることを感じます。理念を形にすることにもっと意識を持ちたいと思います。【●】
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働き方も、何を残していくのか、それが大切だと思いながらも、では昨日の働きは、周りや地球に何を残して行けたのか、と振り返ると、積み上がる行動より、今を乗り切る行動や、学ぶばかりの行動が多い事に気付きます。
積み上がる行動の量をふやし、ゆっくりと着実にお役に立てる自分の使い方をして行きたいと思います。
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ただ樹木を植えるだけでも尊いのだと思いますが、何のためを意識して遺していくことが大切だと感じます。募金でも皆が少しのお金を持ち寄れば、行いは小さくとも大きな結果に繋がるのだと思えば、受け取る分よりも少し多くお返しする、その意識が全てにおいてあれば豊かさを守って行けるのだと感じます。まずは自分の中でのバランスをしっかりと見直していきたいと思います。