昨日、高尾山にて樹木研修を行いました。前回は座学で樹木の知識を事前に学びましたが今回は実地で山に入り樹木を見ながらの研修になりました。
高尾山はお店や人がとても多く、登山路も人だかりでまるで大都会のようでしたが人が少なく樹木を観察できるルートを選んでくださった御蔭でゆったりと樹木を観て学ぶことができました。
昨日はブナについての学びがありました。ブナは関東では標高800メートル以上の冷涼な場所にしか生育しません、しかしなぜ標高600メートルの高尾山に存在するかというテーマです。
実際に歩いてまわると樹齢300年以上のブナの木たちが高尾山には遺っていました。しかし最近のものはなくすべて300年くらいの大きなものばかりです。これは江戸時代が小氷河期であったことを証明するからということでした。今よりもずっと寒かったのでブナの樹が繁殖できたのです。今では温暖な気候の中で樹勢も弱り、このままでは高尾山からブナは消えてしまうそうです。
こうやって樹木は気候の変動に合わせて、自分たちの住処を拡大していきます。樹木からかつてこの場所はどんな気候だったのか、そしてその中でどのような順応してきたのかを知ることができます。
自然界というものは、変化に順応するものだけが生き残るようにできています。小さな環境の変化を察知し、変異を繰り返しつつ時代に合ったものが生き残るのです。気候が変われば気候に合わせて自分たちを変化しつつ多様化し、どの気候になったとしても誰かの種は残せるようにと変異を繰り返します。
つまり自然の樹木というものは「来たものを選ばずに受け容れて自分の方を変えるという戦略」に生きているということを学び直しました。より強いものを遺そうとするのは、自然の中で生き残る必要があるからです。
老子に、「柔弱の徳」があります。
これは(人間が生まれたときは柔わらかく弱々しい。 その人間が死ぬときは硬くなる。 すべて草や木も生まれたときは柔わらかで脆い。 それが死ぬときは枯れて堅くなる。 このように堅く強いものは死の仲間であり、 柔らかく弱いものは生の仲間である。)という意味で解釈されます。
昨日の樹木の観察から、私は自然の変化に最も強いものは自然の法理に敏感で鋭敏であるということではないかと直感しました。樹霊や霊力というものもそこに近づいていくことで実感できるのかもしれません。
つまり樹木は特に長生であればある種ほど、自然に精通しているのではないかと私には観えます。ここから如何に樹木の智慧を学ぶかが重要に思うのです。
かつての祖先たちは樹木が悠久に生きる樹禮に何を観ていたか、私たちよりも地球で長く変化を乗り越えてきた尊敬する大先輩である樹木の傍で、このまま学びを続けていきたいと思います。
昨日も貴重な学びがありました、有難うございました。
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変化への対応には、「戦う」か「耐える」か、それとも「受け入れる」といろいろな戦略があるでしょう。このなかでは、「受け入れる」というのは、一見、弱く見えます。しかし、「受け入れざるを得ない」のではなく「受け入れる力がある」のであれば、これが最も強い生き方かもしれません。人が必死に抵抗するのは、結局は「受け入れる実力がない」ということかもしれません。そういう意味では、この強さは、真の「謙虚さ」に通じるものがあるのではないでしょうか。
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子孫を残せず最期のブナとしてあの場にずっと佇むのを今はただ見守るしか出来ませんが、300年前から実生が育たないことを心配に思う人もいたかと思うと、あの場所にある存在意義の奥深さを感じます。かつては今のような街のような賑わいは考えられなかったかもしれませんが、変わる中で存在を示すことで警鐘を鳴らしているのかもしれません。今回出会ったブナを見守っていくことで次取る戦略も見えてくるのかもしれません。次回はゆっくりと見て回りたいと思います。ありがとうございました。【○】
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自分がどんな環境で育つのか、それが木々によって違うことを学ぶ機会になり、改めて人間は、子どもは、企業は、一家は、どんな環境で育つのかと考える機会になりました。そして子ども達のところが、社会の縮図であり、だからこそ家庭でも今目の前で起こる事を良く考え、受け止めて変化していく必要があるのだと気付きます。小さい事と決め付けず、日々を流さず生きて行きたいと思います。
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遠くから山を眺めればどれも同じ木に見えてしまいますが、ひとたび足を踏み入れてみれば無数の種類の植物・樹木が生い茂っており、どれもが異なる魅力を持っていることに気づきます。同じく物事も傍観しているだけでは一つの側面しか見えないのだと思いました。いかに踏み込みを深くして本質を掴むか。人生は旅のようだと言いますが、山あれば敢えて入り込んでみる心の余裕を持ちたいと思います。