人は目を用いて物事を見ようとします、人は情報の80パーセントを目だけで得ているともいわれます。しかし実際の現実はとても目だけではすべてを見ることはできません。その目には観えないものは他の感覚で掴んでいきますが、今の時代は目だけを集中して酷使し目で何でもすべて理解しようとしているように思います。
科学的にも目と脳の神経の距離が近いため一番脳に影響を与えているともいいます。つまりは目は脳そのものとも言えます。たとえば、食べ物を食べる際にも好き嫌いとかもありますがだいたい思い込みで食べていることがあります。きっとこんな味だろうと思い込んでは、その味を脳で想像しながら食べるのです。
特に今の時代は、ファーストフードが流行っていますから見た目の味と同じ味であることを重んじます。毎回、新しい味を食べるのではなくきっとこんな味だろうと思っていることに安心するのです。もしも食べてまったく思い込んでいるものと違うのなら不安で食べないかもしれません。
以前、暗闇の中で食べるレストランの話を聴きましたが目が使えない状況になると何を食べているのかが最初はわからないのです。時間がたつと味覚が戻ってきて味が分かるようになります。他にも見た目はトマトのように赤く色を付けたスープを出しても、中身の味はキューリにしたりと変えると最初はトマトと思い込んでしまっているからキューリだとはすぐに気付けなくなります。
これなども一種の思い込みで食べているということです。言い換えれば見た目のところで判断してそのものの本質を味わおうとはしていないということです。
こういうことは日常的に行われていると思います。相手を思い込みで判断したり、他人の話をちゃんと聞かず自分の刷り込みで聴いていなかったり、見た目のところで理解しては本質を掘り下げず深めなかったりと、結局は目と脳しか使っていないのです。
本来、そのものの中にはすべてにおいて本質というものがあります。これは一体何なのか?本当は何か?といった、そのものの本質を聴きもらさず味わい盡そうといった求道精神のような学問の姿勢というものがあります。
何を学ぶのかの定義が、知識であれば本質までは必要ないのかもしれませんがもしも学びの定義が思いやりや真心を学ぶのであれば本質でなければ意味がありません。
如何にそのものの本質を見抜く力をつけるかは、見た目や思い込みといった刷り込みを自分自身が常に取り除く精進をしてこそできるように私は思います。刷り込みがあることも忘れ、思い込みで見ていることも思い出さず、自分の価値観にも捉われているようであれば、見ても観えず、聞いても聴こえず、食べても味わうことなく、触れても感じない、臭っても嗅ごうともしないことと同じなのです。
自分自身が本質である理由は、外界からの歪んだ洗脳に負けないように真実を知る覚悟と真実でいる勇気があってはじめてできるのかもしれません。そしてそれは世界の問題を自分の問題だと捉える大きな観点があってできるようにも思います。
日々に本質の中にある味を見極められるように、騙されてしまっている脳を騙しつつ体験を味わい盡していきたいと思います。
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本質を見抜くには「洞察する力」を磨く必要があり、洞察するには、固定観念や思い込みを外して、表面的情報に惑わされずに見極めることが大事です。表面的情報のほとんどは、確かに、目からの情報が多く、うっかりするとそれが確定情報として優先されてしまいます。自分が判断の基にしようとしている情報が、見た目や勝手な思い込みでないかどうかを、一つひとつ丁寧に仕分けていく訓練が必要だと感じます。
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先日、高尾山へ行った際にトリックアートの美術館があったのに気付きました。机上で見る騙し絵でも簡単に錯覚を起こしますが、美術館となるとまさに身体全体で錯覚を起こします。錯覚と気付けているなら自分を取り戻せますが、一度信じて思い込んだものは中々抜け出せないように感じます。本当は何かともっともっと追求していきたいと思います。【●】
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頭で理解するような説明を浮ける際には視覚的に訴えてくるものの方がわかりやすく印象にも残りやすいですが、今は身のまわりがそればかりになっているのを感じます。刷り込まれやすいからこそ、武道の稽古後に行っている黙想のように常に心の曇りを確認して祓っていきたいと思います。
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自分で作る納豆も、先日の失敗から、その次に作った納豆を食べる時に不信の心で食べ、味わうことから程遠い食べ方をした事を思い出しました。
本物の味かどうかより、スーパーで売っているものと違うという見た目にかなり影響され、心の中からしばらく不信が取れませんでした。それでも、香りを味わい、味を味わう中で、本物を感じようとすれば、味わいが深まる体験をしました。
見た目や経験に左右されない生き方で味わって行きたいと思います。