先日、ある法人で理念研修を行いました。もう随分長い間、一緒に取り組んできましたが理念に沿って明らかに善くなって理想に近づいていく姿に感慨深いものを感じています。
御縁は不思議で、思い返せば色々なことがありそれを一つ一つ乗り越えて積み重ねていく中で本物のチームや、本物のオープン、つまりは絆や結束力が高まってきました。わかりやすい安易なところからではなく、違いを受け容れ信じ合うというような難しいところから真摯に時間をかけて取り組んできた人たちを今では誇りに思います。
純粋な人たちが理想を前に純粋にかかわることは時には傷つき、時には痛み、涙するような出来事にも出会いました。しかしそれでも諦めずに根気強く信じて待つことで今の姿になりました。
変化というものをじっくりとゆっくりと味わっていると、不思議な計らいや絶妙なご縁の組み合わせを感じずにはおれません。何か偉大なものの慈愛や慈悲のようなものを感じることができます。考えるよりも感じていく人生を歩むなら、いつもそういう見守られている感覚に包まれるのが人間なのかもしれません。
その中でまた新たな気づきがあります。
経営者が社員を教えて育てるのではなく、社員によって経営者も育つということです。これは育てるという行為が2者関係や相対関係だけで行われているわけではないということです。お互いが育ちあい育てているという事実、これこそが共生と貢献なのではないかと確信したのです。
どちらかだけで育つことはありません。これは親子の関係然り、上司部下の関係然り、大人と子どもの関係然りです。つまりは立場などは超えて、同じ理想や理念のために共に学び合いながらお互いに成長する。
真の教育とは、偉大な見守りの中で同時に育て合うということでしょう。これは地球が自然の中で様々な生き物たちを活かすように、宇宙が銀河の中でお互いの星々を活かすように、すべての道理はこの「お互いに助け合う中」にこそ真実があります。
お互いに助け合うとき、お互いに育ちあい、お互いに見守り合うのです。
この時、自我や自分というものを大きく超えて包まれている中にいのちがあることを実感するのでしょう。そしてそのいのちを活かしあう関係をつくるとき、共に成長するといういのちの姿を実感できるのです。
育てているはずの自分が育てられている、育てられているはずの自分が誰かを育てている、素直に謙虚になっていれば育ち合う風土の中に自分が活かされていることに気づきます。
まさにこの真実に頭が下がり、心から有難く感謝できるのです。
そしてそれもご縁に由るものです。
御縁を深めていけば、お互いが助け合い育ち合った余韻が丸ごと響き香ります。
日々に精進していく中で、愉快な仲間たちと学び合い助け合えた背中を子どもたちに遺し譲っていきたいと思います。
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この世に偶然なるものはなく、すべてに意味があるといいます。特に、「ご縁」にそれを感じます。一時的には、さまざまな感情が交錯しますが、振り返ってみると、全てのご縁に意味があったことを感じます。また、「負うた子に教えられ浅瀬を渡る」と言いますが、子どもをもってからは、全てが「学びの機会」であるということを痛感しています。きっと、「教える」というものはないのでしょう。すべてが「教わるための手段」であり、すべてが「学ぶためのご縁」なのではないでしょうか。
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小学校の授業参観にしても七五三にしても、子どもの行事に関わると、それが子どもの成長の確認のためにあるだけでなく、自分たち大人側の感謝・決意・覚悟を感じる機会なのだと実感しました。何が出来るというわけではなくても、その子どもの存在自体が自分自身を成長させてくれる鏡なのだと思うと、親でいることが出来ることに有難さを感じます。どのような関係においても同じじこと、尊大にもならず卑下もしない、自然な繋がりを大切にしたいと思います。
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たくさんの人に支えられていることを感じ安心感に包まれます。そこに甘んじることなく初心に立ち返り社業に務めていきたいと思います。【●】
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この週末も、誰かの育ちの役に立てているかと振り返っても分かりませんが、自分が頂いている学びの量に感謝の気持ちが湧き出ます。子どもたちから、お義父さん、お義母さん、兄さん姉さんから頂いた学びから、人生が二度ない事を実感させて頂きました。いつも今を大切に生きる、みんなと一緒に生きる。幸せを分け合う生き方を選択して行きたいと思います。