体験を味わう~共感~

自分の体験というものは何よりも尊いことです。なぜ体験が尊いのか、それは共感することができるからです。共感こそが人との絆を結び大切な人と人とのつながりをつくることができるからです。

自分が体験したことの集積が人生です。

その人生が如何に充実したことであったかはその日々をどれだけ深く味わったかということです。味わう中で感じたこと、心も感情も体も一体になって真摯に共感し道を歩んだ中で得た体験こそが何よりの財産であるのです。

しかし実際は体験しているはずが、体験になっていないことがあります。心が着いてこない体験はただやっただけになります。味わうことがない体験は知識としては分かっても共感はできません。

自分の人生は必ず他人の役に立つと信じている人は体験を怠ることはありません。如何に偉人のことを学び、周囲の先生のことを知っていても、その人になることはありません。

それはその人の知識を求めるのではなく、その人が求めるものを自分も求めなければ本当の意味で同体験をすることができないからです。私も尊敬する先師が沢山いますが、その人の足跡ではなくその人たちが求めていたものを求めています。

だからこそその人たちが求めた体験を渇望するのです。

それは単に似た体験をすればいいわけではありません、求めた質量が体験の質量に転換されますからそれだけ高大な志を抱き続け研鑽を怠らず精進をしてはじめて体験が近づていくのです。

その人が求めている理念を自分の理念としてどれだけ本気で取り組むか、そこに一緒に体験する尊さがあるのです。その体験で得られた共感こそが、他の同じように苦しみ悩み道を迷う人たちの勇気になり励ましになります。

自分の体験からの共感があれば自分自身も同じ道を志す同志たちと心を通わせます。また同志たちの体験に自分も深く共感し切磋琢磨し学び合う仕合せを与えることもできます。

自分が一生懸命に生きるだけでそれが多くの人たちのお役に立つという実感。偉大な循環の中で自分の生を生き切ることの大切さがその日々の実践の中に存在するのです。

体験したいと望む心は好奇心から来るものです。

頭でっかちになるのではなく志を高め続けて有難い体験を味わ盡し求め続ける日々を歩んでいきたいと思います。

  1. コメント

    実践報告を聞くたびに実践の深まりを感じ、なぜだろうと思っていましたがそこに感じいるものがありました。聞いたことを鵜呑みにせずやってみる。やってからその聞いたことを語る。内容は同じことであっても、初めて聞くような新鮮ささえ感じ大事なのはそこか!と感じました。振り返ると理解して共感しようと表面的に返し、心は遣わずやり過ごしていたのだと思います。実践内容はさることながらですが、その姿勢そのものを見習っていきたいと思います。【○】

  2. コメント

    同じ道を歩いても、その人の心にある「問い」によって、見えるもの、すなわち目に入ってくるものが違います。つい「ここを見よ」と教えてしまいますが、それでは、結局、見えるものが違います。人間関係も、「問うこと」で理解しようとしますが、単に「問う」のではなく、「問いを共有する」という理解の仕方があります。「古人の跡を求めず、古人の求めたるところを求めよ」と言いますが、古人に対してだけではなく、日頃の関係においても、「心の問いを共有する」という生き方をしたいと思います。

  3. コメント

    どんな言葉でも相手が話して下さったものを自分のフィルターを通さずそのまま咀嚼して呑み込んでみて味わってみる、というような聴く姿勢について仲間から話を受けた時に、なるほどそうかと思いましたが、実際にやって感覚が掴めないのは日頃の体験を味わいきれていないからなのかもしれません。体験風の積み重ねにならないよう気を付けたいと思います。

  4. コメント

    我に操られたり、追い越された状態での体験では、苦しいばかりか、周りへの影響を感じます。
    いつもファシリテーターの姿勢を離さないでいると言うことは、自分の心を大切にし、周りを大切にする事なのだと感じました。あまり無理な生き方をせず、もっと全体の為に自分を使って行きたいと思います。

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