信の実践~自分が正しいを手放す勇気~

人は無意識に我執や自我に捉われているものです。それに気づけば自分を中心に正しいとか間違いとか誰かを裁かなくなっていきます。そのためには「認める」という実践を積み上げていくしかありません。

認めるために最初に必要なのは、「自分が正しい」というものを手放す勇気が要ります。自分を突き通せば突き通すほどに他人の言っていることを素直に聴けなくなります。認めるというのは言うを忍ぶと書きますが、これはまず自分が正しいというのをどれだけ忍べるかに由るのではないかは私は思います。

自分が正しいなら本来、相手も正しいのです。なぜならその人にとっての意見は何らかの理由が存在するからです。つまりどの話も一理あると聴けるかどうか、相手の話を素直に受け止めて正直にいられるかどうかということです。

他人の話が聴けるようになるというのは本当に難しいことで、それは相手を尊敬し尊重することができるようになってできるものです。自分が正しいと依怙地になり自分を守っていたら、他人の思いやりや真心にまで反発してしまいます。言うことを頭で従順に聞くのではなく、あるがままに思いやりや真心で聴けるようになるには「自他を信じる実践」の積み重ねで人格が研鑽練磨されていく中で次第に身についてくるように思います。

つまりは認めるという実践は、自分が正しいを手放す実践でもあり、その実践は自他を信じ切る実践でもあります。このように実践により信を積むためには、傾聴、共感、受容、感謝、これを言い換えれば「きっと何か自分には分からない大切なことを教えてくださっているのだろう」と自分の周りにあるすべてを師にしていくような謙虚さが必要です。

どれもこれも道の実践ですから、簡単にはいかず長い時間がかかるものです。常に内省し改心を怠らず、見守られている感謝に報いるためにも精進していきたいと思います。

  1. コメント

    人は、好きな人のことは理解しようしますし、多少理解できなくても、受け入れたり認めたりできます。しかし、そうでない人に対しては、その感情を乗り越えるだけの「理屈」を求めてしまいます。厄介なのは、他人に対する認識は、「これまでその人について記憶され蓄積されていることで決まる」ということです。過去の記憶の延長上にしかその人を見ることができず、今日の言動だけを純粋に受け入れられないのです。「今日は正しくても、その人は認められない」ということがあり得るのです。結局は、「認める」ということ自体が、正しさなどの理屈を超えているのでしょう。「認められない」という結論を出してしまっている自分自身の根本意識と向き合わないといけないと感じます。

  2. コメント

    ザックジャパンのこれまでの日記を読むとその中にとにかく対話を大事にしているとありました。不安や心配がないように声をかける。不安や心配があったままではプレーに反映されてしまうからと。
    続けていても本当にこれでいいのだろうかと不安に思う時、たった一言でも自分は認められているのだとこれまで何度も感じる体験をしてきました。今度はその体験を人のために使いっていきたいと思います。【●】

  3. コメント

    先日の正義感の強い人の話を聴いて、自分にも似たようなところが少なからずあるように思いました。自分都合ではなく誰かのための正義感からの行動であっても、全体を観ればやはり善悪をわけることは出来ず、全てが丸ごと自分に返ってくることがあるのを感じます。認める受け入れる強さを持ちたいと思います。

  4. コメント

    傾聴も、共感も、受容も、感謝も、中々自分の価値観を超えてする事が出来ません。特に、意識していない時は余計にそうだと感じます。しかし、挑戦する時は、自分の価値観の外側に答えがある事を信じているからか、必死だからか、固執していないようにも思いますが、それは必死に内省を行っているからだと感じます。自分の価値観を高めるためや、確かめるためではなく、何かの為に挑戦する為の内省は全く違うこと。自分の内省のぶれに気付ける機会に感謝したいと思います。

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