昨日、自然農で育ち収穫し脱穀した稲を籾摺りして炊いた玄米を食べました。噛めば噛むほどに深い味がし、御米が育つ場・間・和を優先してじっくりと見守られ見守った御米は感慨も一入、また格別でした。
そしてその時、食べるというのは実は大変有難い丹精丸ごとを食べているのではないかと実感しました。
私たちは便利さを追求しているうちに食べるという行為でさえ、単なる空腹を満たすようなものになってしまっていますが本来は食べるという営みこそが、生き活かされている証拠であるのです。この「食が営み」という言葉を何度も聴いたつもりでいましたが、昨日一年間の御米の見守りを振り返りながらはじめて「ああ長い時間を経て得たこの出会いの瞬間こそが営みであった」と深く実感しました。
人生の目的は結果ではなく経過であることは誰もが分かっています。しかし、結果さえよければと結果だけを追い求めるのが人生の目的になれば暮らしそのものを味わったりするよりも悩み煩わしいことばかりに心を奪われ意識が囚われてしまうものです。
しかし丸ごとの今を受け容れ、時間をかけて丹精を籠めて全てを善いことにして楽しんでいく日々を過ごしていけば結果が自分の思い通りでなくても、自分の思っている以上の出来事が起きているのを知って感謝の心が育っていきます。
自分の思い通りにいくかどうかばかりを皆追い求めますが、本来追い求めるものは思っている以上の奇跡や感謝に新たに出会うことだと思います。
長い年月ずっと念じ続けて思い続けて信じていれば、たくさんの御縁に恵まれそのことから事が次第に為されていきます。素直に謙虚にさえ歩んでいけば、自ずから道が開けて周りの助けによって事は”なる”のです。
本来、じっくりと時間をかけるのは自然が四季を循じるように自然が自浄していくように自然に任せて取り組んでいくものです。思い通りにいかないのは人間に合わせようとするからです。人間に合わせるのではなく、自然の流れに沿い従い応じて任せていきながらその中で精いっぱいの自分の丹精と真心を使うことではないかと思います。
地球上に於いては”いのち”はすべて等しいものであるということを自明します。人間だけが特別であるという傲慢な気持ちを少し我慢さえすればこの世はまるで楽園のようです。齢を経るとともに、人々の囚われている自我の刷り込みを何とかして取り除いてあげたい気持ちは減るどころか益々高まってきています。
今回、取り組んだ自然の実践ではまだまだ技術は未熟ですが自然の営みに合わせるその真理は少しだけ心身に染み込んできたように思います。じっくりとゆっくりとしたいのちに合わせて有難い機会と実践の恩恵に感謝しつつ、その気付きを子どもたちの未来の社會に還元していきたいと思います。
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「成るものは成る。成らぬものは成らぬ」これが自然の摂理です。人間がいくら願おうが、努力しようが、人間の希望が叶うのは、この範疇でしかありません。また、自然とは、いのちの営みですから、摂理に反するものは生きられません。がんばろうとする前に、どんな「土俵」で生かされているかを見失わないようにしないといけません。
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子どもの頃は時間という感覚が無く、見通しを立てるという感覚も無く、だからこそ「じっくりと時間をかけて経過を味わう」という姿が自然にみられたのだと思います。大人になるにつれてそれが出来なくなるのは、周囲から「時間の無駄をしているように見られないか」いう強迫観念にも似た強い刷り込みがあり、「非効率は無駄」という価値観に縛られているからではないでしょうか。子ども第一主義として、子どもがもともと持っている経過を味わう自然な姿を守るためにも、自分がまずその豊かさを感じ、堂々とそれを示せるようになりたいと思います。
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営みとしていのちを頂くのか、空腹を満たすために食べるかでは行為はおなじであっても意味合いは違うことを感じます。「頂きます」と手を合わせたくなる実感が湧いたのも、烏骨鶏が産んだ卵を頂いてからのように思います。
そして先日ある先生から「ある精肉店のはなし」という映画を紹介して頂きました。今度観に行ってきたいと思います。【●】
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去年の味噌作りの時に、一年家族が食べられるようにと家族総出で味噌を作り、今年はその味噌で一年を過ごすことが出来そうです。この味噌も皆で作ったからこそ、自然な豆、桶との出会いや、自然とのハプニングや、子供達の見守る姿を想像出来、味わう事が出来るのだと感じます。
経過に味わいがあるからこそ、一緒に手間暇をかけることを大切にして行きたいと思います。