ギビングツリー(The Giving Tree)という物語があります。これは米国の作家のシェル・シルバースタインという作家が描いたお話です。この本はすでに30ヶ国語以上に翻訳され今でも世界中で読まれ続けています。
この話は、樹と少年のかかわりの物語です。少年が大好きな樹は、少年がほしいものを自分の身を削って与え続けます。すべてを与え続けてそれでも少年が大好きで、樹はいつまでも幸せだったというものです。もっている自分のすべてを大好きな少年に差し上げていく樹の姿に、言葉に表現できないぬくもりや見守りを感じます。そして少年もまたいつまでもその樹を忘れずに大切な節目にはいつも頼りにしながら自分の人生を自分で歩み切っていきます。
この樹と少年の関係の中には、お互いの絆を通して共に絆を深め合っていく尊いご縁と結びが観えます。この物語が深く共感され長く人々に読まれるのは、そこに確かな愛を感じるものがあるからかもしれません。
先日、ある森を歩いて樹を観察していたら樹はもともとその性質の中に「与える」という徳性があることに気づきました。なぜなら樹は存在し生えることで、周りの生き物たちをすべて活かすからです。
樹は1本から循環をはじめます、その樹は伸びていくことで水の流れを保ち、落葉しては土壌の微生物たちをはじめ様々な生き物の住処を用意し、木蔭で休憩する動物たちや、実や樹液は食べものになり、幹はあらゆる道具として活かされます。
地球上にいて歴史が古く、もっとも長く自然の篩にかけられても生き残っているのは樹木です。この樹木がなぜ選ばれるのかは、そこに「与える」という生き方があるからではないかと思います。
私にとっては、「tree=giving」であり、「与える=樹」であるとしています。樹はもともと与えるのが樹であるということです。今の樹があのようになっているのは、与えるのみの姿であるから私たち人間には気づきにくいのです。本来の樹は与える中に存在しているからこそ、自分の生き方がそうなったとき樹の生き方が観えるのでしょう。
そして自分への見返りを一切求めずに与えることは、それは失っているのではなく同時にサムシンググレートから偉大なものをいただいているということでもあります。自分が得ようとするよりも、与えることで得られるのが天恩であり天恵です。
つまり自分にとっての損得ではなく、自然そのものの尊徳を感じているのが樹ではないかと私には思えます。
樹から生き方を学んだ一年でしたが、少しだけ樹の持つ本質を学び直したように思います。
この「TheGivingTree」の物語のように、愛と見守りの仕合せの関係を生長の中で真の自立=人間愛を築き合っていきたいと思います。
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あの物語を読むと、自分の中の感情に、樹に対するせつなさに似た感情を感じます。それは、どこか与えるという事に対する自分自身の感情やイメージに「見返り」への期待があるからかもしれません。本当の「与える」ことの豊かさや幸せは、「見返り」という柵から解き放たれた時にこそ、訪れるのだと感じます。それは、やはり自分の子どもへとなった時が一番感じやすいように思います。もっと、その偉大なものを頂いているという自覚をもっていきたいと思います。
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「givingtree」から女の子が生まれると桐を植え、嫁入りの際に箪笥にして持っていったという一昔前の話が頭に浮かびました。娘を嫁に出したことがある訳ではありませんが、離れていく娘に少しでも安心して欲しいと、親の思いが箪笥という形になったのではと思います。今はクローゼットの方が見る機会が多いように感じますが、想いは閉じてはならないのだと感じます。
あの物語の少年を見守り続ける樹のように生き方を示していける自分でありたいと思います。【○】
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「与える者は与えられる」といいますが、与えられるのは、与えた相手からではなく、天恵です。すなわち、「お礼」でも「見返り」でもありません。したがって、返ってこないことを心配する必要はないということです。「安心して与えられる」という仕組みが与えられていることに感謝したいと思います。
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鮭など卵を産み子が出来れば、自分は身が朽ちて息絶える生き物もいることを思うと、人間もまたもっと与えることに生きられるのだと感じます。そして同じように今自分がいて、何気なくこの環境に住み、様々なものが使えているのも、後の少年たちを思って与えてくださった多くの方々のお陰様ではありますが、日頃はすっかりその意識が抜け落ちてしまいます。私たちは縁の下の力持ち、頂いてばかりではなく与えられる人になりたいと思います。