自由の森学園の音楽祭の2日目を見学しましたが、初日とは変わってそれぞれのクラスによる合唱が行われました。それぞれにクラスの個性があり、歌をよく聴いていたらそれぞれの色が観えてきます。
合唱というものは、呼吸を合わせて気持ちを合わせていくことで一体感が生まれその協力し合う一体感に人間は感動するのかもしれません。音楽ということの本質を主体的な発表を通して学び合う善い体験になっているのではないかと思いました。
私の昔の学校時代は、音楽の授業は好きではありませんでした。毎回、意味もわからずに無理に歌わせられ、歌えば間違いを指摘され、何回も間違ったところを歌い直され、何の興味のわかない歌を只管に授業が終わるまで練習させられます。学校のテストのように正解かどうか、ちゃんと教科書通りかが優先させられまったく楽しい思い出がありませんでした。
1回の本番の達成感のために音楽を利用するのも一つの考え方ですが、私にとっての音楽は鳥の声や川のせせらぎ、木々の風に揺らぐ音や、動物や虫たちの鳴き声です。神社にいけばいつも穏やかで静かな音楽が流れ、いつも一体感を感じています。
音楽の愉しさは、自分の心の中の自由に由ります。
自分の心の中に自由はあるのだから、それを自分でどう掴んでいくか、そこには音楽が大いに助けてくれると思います。学生時代は学校への反発からかバンドも組み、編曲しライブもし、オリジナルで歌を表現し、今では社業で歌を作詞し一緒に歌い充実した今を演出するためにも音楽を用いています、
自由を求める心に音楽を活用するというのは、新しい発見がありました。今後の社業でもさらに活用してみようと思います。
自由というのは、自由か不自由かの自由はありません。本来の自由とは、そういう比較対象するものを超えたところに存在するものです。自由が分かるのなら自立するというのも、それは自らが自由に気付ける人格を備えているからということなのでしょう。
マハトマ・ガンジーに「私は人格をすべて表現するために自由を望む。」があります。
よく表現の自由とか言われますが、表現が自由なのです。
如何にオープンにいるかというのは、如何に自由でいるかということです。自分の本心や本音を隠したままで我慢をしては人格を表現することはできません。自分の人格のままにいられるのは周囲をはじめ自分を信じるからです。
周りに迷惑をかけなくなるのは、そこに全体への思いやりが育つからです。つまり思いやりのない自律などなく、周りにオープンではない自立など自由ではないのです。
引き続きどのように自由な環境によって子どもたちの心が育つのか、じっくり観察し探究してみたいと思います。
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ひとりの時の自分とみんなとの時の自分。違う事はありますが、それを知って貰えることはありがたく、安心すると感じます。良いか悪いかを越えて受け止めて貰える事で、子どもは自らの人格を自らで磨き始めるのではないかと、娘と一緒にいると感じます。どんな風になって欲しいという思いがやはりありますが、それ以上に子ども達の思いを受け入れたいと思います。
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人生とは、ある意味、自己を表現することであり、とても創造的なことです。しかし、人間関係や社会の存在によって、みんながありのままでいることには制限がかかります。それは、我慢することではなく、人格を高める方向で解消すべきものなのかもしれません。「心の欲するところに従いて矩を超えず」という域に達するには、人生経験も年齢的な悟りも必要です。それまでは、「許される環境」というものに支えられながら、常に素直であり続ける努力が必要なのではないでしょうか。
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世間を見渡すと様々な形で表現され、たまたま行った浅草でなお感じました。観光客に呼び込みの人、職人等それぞれいて威勢のよいかけ声も反応する日とあってのものなのだと感じました。多くの人で賑わう浅草の街もそれでいて、日本を代表するような場所なのかもしれません。何と声をかけるか一つではじまるやり取りを味わっていきたいと思います。【●】
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子どもの作る作品や遊びや歌などを見聞きしていると自分では思いつかないような発想が沢山あり、そういうものが子どものワクワクの素のように感じます。きっと何にも縛られていない姿なのでしょう。自分自身もワクワクが消えないよう感じたものを感じたままに表していきたいと思います。