利よりも義こそ草莽の臣

今、国家の政治は乱れているといってもいい。

この数年で5人も首相が変わり、一部の人たちの利権と利害関係のみで政争を繰り返しリーダー不在の状態が続いている。

今のリーダーの在り方そのものが間違っていることから、政治に影響を及ぼし国家の忠臣も出てこず何かと行き詰っている状態が続いているようにも感じる。

昔、吉田松陰が以前に「狂夫の言」の中で下記のようなことを記している。

「天下の大患は、其の大患たる所以を知らざるにあり、いやしくも大患の大患たる所以を知らば、いずくんぞ之が計を為さざるを得んや」

これは、私なりに解釈すれば、「もっとも世間国家の大病の大本は、その大病の原因が自分たち自身であると気づかないことである、もしもこの大病が自分たち自身なのだということを気づけば、その対応策などは立てられるはずである。」といった感じだろうか。

これは色々な業界の既得権益で出来上がっている巨大な組織や団体など何よりも利ばかりを追っている人たちが自分たちが病気なのではないかとは思わずに問題を誰かのせいや外のことにばかりしているのを観てきて感じたことがあった。

水戸黄門の悪代官も、正義のヒーロー映画に出てくる悪役も、まさかあれが自分だとは誰もが思っていないのである、分外にいるものであると思うから間違いが起こるのであろうとも思う。

その矢印がもし、ひょっとしたらこの病の問題の原因は私自身にあるのではないかと慎み、省みることで対策を立てる事こそが政治の要諦であるようにも思う。

そして、吉田松陰先生はこの後、長く考え悩み苦しみ抜き朝廷幕府、諸藩に頼るのを止め、自らが国家の草莽の臣となると覚悟する。

つまりは、自分自らの変革により自由に世の中を易えることを決意するのである。その時、下記のような手紙を佐久間象山の甥に送っている。

「独立不羈三千年来の大日本、一朝人の羈縛を受くること、血性ある者視るに忍ぶべけんや。那波列翁(ナポレオン)を起こしてフレーヘード(自由)を唱へねば腹悶医し難し。僕固より其の成すべからざるは知れども、昨年以来微力相応に粉骨砕身すれども一も裨益なし。徒らに岸獄に坐するを得るのみ。(中略)今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし。草莽崛起の人を望む外頼みなし。」

これも私の解釈で書くけれど、「独立国になり歴史のあるこの日本が、一部の役人によって滅んでいくのは忍び難いことである。ナポレオンが先頭に立って自由を手にしたようにできることを知っていたけれど、昨年以来ずっと政府や幕府、諸藩、朝廷に粉骨砕身働きかけたけれども一つも効果がなかった。竟には投獄されてしまった始末である。今の政府も関係するものものもすべて酔っ払っている人のようになっているのだからどうにもする術はない。だからこそ、野に散らばっている志ある人たちが立ち上がること以外に頼るしかない。」というような感じである。

自らが間違っていたと気づくのは吉田松陰先生が先だったのである。

言行一致にやってきたら周囲から狂人扱いをされ、自分は狂人ではなく猛人なのだと訴えても誰もそれを理解を示さず苦しみの中からなぜそうなるのかを考えたのだろうとも思う。

そして勇猛心を駆り立てて自らが草莽の人になって、世の中に出たことが変革の源になった瞬間だったのだろうとも私は思います。

今の私たちの未来の国を観て、松陰先生はどう思いますか?

利ばかりを追い求めそういう中にいて語る正義にやはり今昔変わらず酔っ払いばかりであると思われませんか。

まずは自分自身の間違いを素直に皆が気づくことこそが草莽の臣になることであると私は思います。

巨大組織や政治に頼らず、自らの生き方そのものや自分自身の志が義から入るようにしていくことから国家百年の計も必ず立っていくはずです。

変わらないと諦めるよりも、自分自身の志を信じて草莽の人になり共に歩んでいきましょう。それぞれの現場の人たちの志と真心が世の中を必ず治していくと信じましょう。

  1. コメント

    実践する現場で感じている想いを伝えることは、実践内容を伝えるより人の心を惹きつけ、言葉に力があると感じました。志を同じ目的とする仲間の想いを共有することは、勇気へと変わり立ち上がるべき時に立ち上がる決断力、自分を信じることに繋がると思います。目先のことに囚われるのではなく、何十年後も変わらぬ思いでいるためには純粋に子どものことを想う仲間がいることを感じられることだと思います。人任せにするのではなく、自覚する芽生えを現場の実践から伝えていく事が、役割であり世の中を変えていくためへの前進だと思います。

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