上杉鷹山は学問を広めるために藩校を創設しました。その名前は「興譲館(こうじょうかん)」といいますが細井平洲が名付けたものです。「興譲」とは細井平洲の教えの根幹にあり、「譲(ゆずる)を興(おこ)す」と書いたものです。
細井平洲も上杉鷹山も、学問を興すことで一体何を実現したかったのか、この二人が一緒に目指した社會が一体何によって実現すると信じたか、そこは「譲るを興す」のであると述べているのです。
細井平洲は人間にとって最も大切なことは「譲る」、つまり「相手を思いやる」ことであり反対に「思い上がり」、「相手のことを考えない自分中心の行い」が最も人の道に外れていると説いています。この「 思い上がり」とは、自分中心で「自分ほど物知りな者はいないなどと誇り、他人を見下す行い」のことで「人と人との交わりにあっては、この思い上がりの気持ちをなくして譲り合う気持ちをもてば、お互いの心が通じ合い、物事もうまく運ぶ」からであるといいます。
二宮尊徳は「奪うに益無く、譲るに益あり」と言い切ります。
相手を思いやらない心に「奪う」があります。人間がみんな自分ばかりを意識し、自分のことばかりを考えていては周囲の人たちからあらゆるものを奪っていきます。本人が気づいていないだけで、生き方が奪うになっていると社會は殺伐としたものになります。もしも生き方が謙虚で譲る実践をするのならば社會は次第に穏かで和やかに平和になっていくのです。
この「譲る」という本質は、謙譲ともいいますが感謝を忘れていない生き方をしているかということでもあります。
結局は自分が在るのは何の御蔭様であるか、自分が居るのは何の御蔭様であるか、自分というものが大いなるものにいつも譲られていることに気づける精神を持っているということです。
そう考えてみると、自分の身体一つも両親をはじめ沢山の先祖の方々の譲りによっていただきました。また今の自分の大切な人たちのご縁も沢山の方々のつながりと譲り合いによっていただきました。他にも食べ物からお金から、時間から機会からすべては譲っていただいたものばかりなのに気づくのです。
譲り合いが大切なのは、自分がいつも譲られていることに気づけるからです。いただいたものをまた譲っていく、その譲り合いの社會こと思いやりの社會そのものです。
それがなくなるから自分の代だけですべてを搾取したり、自分たちの時代で奪い尽くそうとそれぞれが思い違いをするのです。人間の欲望は奪うにあり、欲望を超えるのは譲るにあるのです。
人が人である以上、もっとも優先するのは「思いやり」であると孔子も説きます。
人間愛とは思いやりのことですから、社會がどうやったら次第にそうなるのかを環境を通して子どもたちを見守るのが私たち大人の責任であり実践しモデルを示す義務なのでしょう。今こそ上杉鷹山と細井平洲に習い、「譲る」ということをもっと一人一人が日々の生活実践に於いて具体的な事例で学び直していく必要性を痛感します。
社業を通して、しかと足元を踏み固めて実践の質を高めていきたいと思います。
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「与えられること」と「譲られること」の違いがわからないと、「譲っていただいたこと」がわからず、「譲っていただいた価値」に気がつかないと、「譲る」ということの意味がわからないかもしれません。また、「譲る」ためには、「思いやる心」とともに「執着を離れる努力と工夫」も必要です。「モノ」を譲り「権利」を譲り「主張」を譲り「知識」を譲り「時」を譲る、「自分の都合」を譲れることの豊かさを、改めて感じます。
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子どもの頃のクリスマスを振り返っていると、我慢していたことが思い返されます。我慢することで次の人に順番は廻りますが、それは決して譲ったのではなく誰かを気にして我慢し、思いやりからではないことが今でもあるように思います。感情を抑え表現がうまく出来ず頑固になるよりも、ストレートに言ってしまったほうが楽な時もあります。
誰かと比べ不足しているところを求め、まだまだ譲れていませんがありのままに言える安心感を大事にしていきたいと思います。
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子どもが通う小学校の校庭に河井酔茗の「ゆずり葉」の詩がありました。譲りたいものだけではなく丸ごと全てが譲られていくことを思うと、その根本、幹や根に何を持っているかが大切なのだと感じます。譲って頂いた有難さとその責任を感じながら後世のために、世の中がどうではなく自分の生き方から正していきたいと思います。