今年は貝磨きの体験から磨くそのものの価値について再認識することができました。気づくことはできていましたが、気づきに気づくということには到達していなかったように思います。ここで磨くということをもう一度、整理して深めてみたいと思います。
磨くという字で思い浮かべる四字熟語には、「切磋琢磨」や「磨斧作針」があります。
「切磋琢磨」は中国の「詩経」の中で 「切」は骨や象牙を切ることで「磋」はそれらを研ぐことだとし、細工師の技工や完成した細工品に喩えて切磋琢磨は学問や精神・人格を磨き向上することを言いました。
そして「磨斧作針」の方は、学問に挫折した若い頃の李白が帰郷するか悩んでいるとき老女に出会い、鉄の斧を磨いて針を作っていた老女の行動から努力、根気の強さに反省し李白は学問に励むようになったことから、惜しまずに努力し続ければ、困難なことでも必ず成就することを言いました。
どちらにしてもここでの「磨く」というのは、忍耐と根気によって継続して実践を続けて已まないことを例えています。
磨くというのは、単に摩擦していることではないことがここでわかります。一見、無理で難しいと分かっていることであっても諦めずに励むことでどんな石でも磨けば光る玉になることを示しています。つまりは、そのものの対象に問題があるのではなく磨く本人にこそ問題があることに気づけるのです。
例えば、気付くという一つの実践があります。継続して実践していける人というのは、関心を失うことがありません。あのエジソンが何千回、何万回の実験と努力を通して新たな発見・発明を産み出したように根気強く丁寧に気付きを内省する人は同じ実践をしていても必ず確かに磨かれていきます。
それは本人が気づこうとするかどうかに由るからです。
単に同じことをしているから磨かれるのではなく、もっと改善していこう、そこから大切なことを気づいていこう、心を澄まして感応していこう、気付いたことを次に活かそう、「発見=気づき(徳)=発明」と精進するものではじめて磨くことができるからです。
「玉磨かざれば光なし」という故事があります。
この「玉」は丸い形の宝石のことで、 宝石が原石のまま磨かれなければ美しい光を放たないのと同じように、人もどんなに才能があっても、学問や修業を怠れば立派な人間にはなれないということ。これは 『礼記・学記』に「玉琢かざれば器を成さず、人学ばざれば道を知らず」という言葉よりの引用です。
人が道を歩むということは、日々に気づくということです。そして日々に気づく人は次第に徳が引き出されその器が出来上がってくるということでしょう。
磨く楽しみというのは道を歩んでいる愉しみであり、玉を磨くというのは徳を引き出していく歓びなのでしょう。
産まれてきては生きる意味を味わいたいのが人生です。その一度きりの人生がどのような自分を与えられたにしても、その人生をより善くしていきたいと誰もが願うものです。
生きている間、磨ける仕合せを味わいつつ実践を盡していきたいと思います。
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無事に葬儀を終え、沢山の親族や生前祖母がお世話になった方々から祖母の話をお聴きする機会があり、今まで聞いたことのない話を沢山頂きました。その話の中にはそもそも、今自分が子ども達にしようとしている事、見守ると言うことを祖母は私の母にも、私にもしてくれていたのだと教えて頂き、なにも新しい事をするのではなく、頂いた体験や見守りを今度は自分が磨いていく事なのだと気付きました。また、祖母が沢山の人から大切にされていた事を今回感じ、それを今まで当たり前の様に見てきながらも、こうして最後にならないと気付かない自分にも驚き、いただいている機会もやはり磨くかどうかは自分次第なのだと危機感を持ちました。今回の機会も母や兄弟、家族との結束を強める大切な機会として行けるように、自分を使い、磨いて行きたいと思います。
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腕を磨く、才能を磨く、男を磨く、信念を磨く、自分を磨くといったことに共通するのは、単なる継続ではなく、意識的な忍耐と努力の積み重ねによるレベルアップです。それは、また、ゴールの無い、永遠の鍛練でもあります。こうした「磨き」は、ひとつの修行であるがゆえに、同時に、人間性を磨くことにもなるのではないでしょうか。
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館山で「磨」に出会い、その後「染」に出会いました。切磋琢磨は中学生のときの学年テーマでもあり印象深い言葉です。今でも周囲に高め合える仲間がいて、改めて磨くとは何か考える機会を頂いているのを感じています。気付きはじめは何でもわくわくドキドキしますが、ここから今一歩深く学んでいきたいと思います。【●】
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武道の上での来年のテーマを「技の緩急・力の強弱」と考えていますが、よくこれを考えた時に、それが自分の生き方の上でも必要なテーマだということに気づき、改めて同じ道なのだということを感じました。緩急・強弱よろしきを得ることが出来ないのはそのまま人格の未熟さにも繋がっているものと心得、道を味わいながら心技体を磨いていきたいと思います。