一体感とは

一人一人が自立するということは、一人一人が個別にそれぞれに自分のことをできるようになればいいということではない。単独で同じことを一人一人が自分でできることと皆と一緒にやっていくということはまったく意味が異なっている。

それは小さな組織を含め、自立とは社会の中ではじめて成り立つ行為だからである。集団がなければ、一人でできたとしてもそれは単に孤立であって真の意味での自立ではないからである。

音楽で例えればすぐに分かるけれど、一人一人がそれぞれに同じ歌を歌えるから大合唱ができるのではない。一人一人が皆と同じく一つのものに「合わせよう」や「調和しよう」といった意識が重なりあうことではじめて見事なハーモニーは創出されるものだからである。

それを自分が単にみんなとやることを同じくしていれば勝手に合わさるだろうと勘違いしている人がいるけれど、そうではない皆と自分の心底から素直に一つに意識をあわせて同じ理念の本、皆と一緒にやろうとする意識が何よりも大切なのである。

例えば、仕事では社長に確認をするというのがある。

これも、単に自分が進めている仕事を確認するだけなら合わせる必要はない。言えば済むし、メールでも済むし、そんなに難しいことではない。

しかし社長は理念やビジョン、方針を示すのだから、社長に確認をするというのは自分から理念に合わせようといった自分の内面的な意識が一つのものから外れないようにずれないようにとその総指揮者を透徹する感性で観つつ自らハーモニーを生み出そうという行為行動になるのである。

歌や音楽であれば同じく、自分が如何に全体に合わせるか、調和するように合唱しているか奏でているかというものを皆が「一体感」を持つとき、はじめて全体の音楽は美しく優雅に一つのことを顕すことができるのだ。

そしてそうしているとき、人は初めて自立していると言えるのである。

人は自分だけがまずできることを自立と思い込んだり、自分が皆と同じことが同じようにできればそれでうまくいくと思い違いをしているけれどそれは大きな勘違いで大切なのは意識の中で「皆と一緒に進めよう」と思えているかどうかがチームビルドの要諦であると私は確信している。

如何に皆が調和するか、それは一人一人の意識の中で皆と一緒に理念を実現しようといった自分から観て念じて感じて動くことなのである。木を見て森を観ずではないけれど、調和とは森のように自然に山となって偉大さを伝えるものと同じく一つの偉大な組織が調和するときにこそ神々しさを発揮するのである。

今の時代は欧米から輸入した間違った勘違いの個別教育により、自分さえできれば皆に迷惑をかけないと思い込んでいる人が多い。それは刷り込みで在り社会ではそうではなく、自分さえではなく皆と一緒にやっていくことや皆と共に生きていくことで迷惑をかけないようにしていくことが真の自立と共生であるのだ気づくことである。

まずは私自身、その勘違いを人々へ教え、如何に理念に合わせよう、皆と一緒にやっていくことの楽しさ、自律し貢献することの歓びを感じられるようにリーダーシップを発揮していこうと思います。

一体感とは、阿吽の呼吸にまで思いを重ね合い奏であうことであるのだと実践を示していこうと思います。カグヤは、まずそこから改善をし真の個とはどういうものかを示していこうと思います。

  1. コメント

    昨日、友人からこんな相談を受けました。「子供が算数が苦手なようで、家でも見てやっているけれど成績がなかなか伸びない。家庭教師をつけるべきなのか…」と。
    今きっと日本中の家庭で、このような心配がされ、親も子も心を痛めておられることでしょう。
    野見山氏が仰る通り、このような勘違いの個別教育によって、日本の子供たちはロボットのような規格品を目指すようになってしまいました。そして、規格から少しでも外れた子供は、自分を無用の存在と思い、社会に出られなくなったりします。
    以前、野見山氏からこんな真理を伺いました。「どんな子供でも、必ず幸せになれる力を授かって生まれてきている。だから、周りはそれを素直に理解して、一緒に生きていこうとすれば良いだけだ」と。
    私は友人にその言葉を話し、子供のやる気が育つように励ますことが大事で、過度のプレッシャーを与えないよう言いました。友人は野見山氏の言葉に大変感銘を受け、「もっと伸び伸びと大らかに愛していきたい」と語りました。
    資本家が求める、文句を言わない大人しい規格ロボットを、教育界が肯定育成しているのは、実に悲しむべき現実です。子どもたち全ての幸せな未来実現のため、私たち大人が意識を変革していかなくてはなりませんね。

  2. コメント

    同じ言葉を使う時にお互いがどのような意味で、言葉を使っているかの共通理解がなければ一体感ではなく、不信が生まれてしまうと思います。同じ経験をすることで同じものを見て、感じることは出来ますが言葉だけではそれぞれの価値観でものを見てしまうのだと思います。
    ボケと突っ込みもタイミングが合わさり、観客が笑う。そのことで一つの一体感が生まれのだと思います。突っ込むタイミングがずれてしまったり、ボケた意味を聞いてしまうなど、場の空気を壊すようでは関西での生活は大変だと関東との文化の違いを感じます。スピード感のある突込みは、仕事の上での確認をとること重なるところがあると感じています。

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