人は人と生きていく中で、信頼関係というものを築けるかどうかというのはとても大切な要素になる。
人間の幸せというのは他人がお互いに助け合い、認め合い、許し合うことなど、人と人が丸ごと信じ合える関係が持てるかどうかに懸かっているといってもいい。
よくある勘違いに他人との会話が得意だから人間関係を上手に築けると思っている人がいるけれど誰とでも話せるということと信頼関係があるというのは全く同じではない。
ただ会話が上手にできるのは、表面上でもできるし社交的なものはある程度の慣れと訓練によりできるものである。営業の仕事など接客を長くやっていたり、人慣れしてくれば社交的な能力は開発され誰でも磨かれるのである。
しかし信頼される人になっているかというのは、そういった話が単に上手いのとは別であり、誠実であるかどうかや正直で自分に嘘をつかない人か、自分自身を真にその人自身が信頼しているかどうかというその人の人間性や人格といったものが重要になる。
例えば、友人や仲間、家族やパートナーといった最も身近にいる人たちとの人間関係を積み上げるということは単に日々に会話ができて社交的だからやれるのではない。
ただ会話をしているだけでは信じ合う関係は積み上がっていくことはない、それは単に馴れ合いであったり単にじゃれあっているだけの関係でいざという時に自分がその人を心底から丸ごと信頼できるかどうかとは同じではないのである。
一見、他人との約束を守ったり、他人を思いやったり、他人に配慮したりできるというのは、相手の信頼を壊さないように相手の見ているところを気を付ければいいと勘違いしている人がいる。そういう人は他人からは決して信頼されることはない、なぜなら態度をいつも変える人というのは相手を見て相手から認められ信頼されようとしているのであり自分自身が自分で信頼できうる人になろうとしているのではない。
結局、信じるという行為も頼るという行為も、50パーセントくらいや90パーセントくらい信じられるということではなく、「丸ごと」、つまりそれは100パーセントかどうかということである。
それを相手を見ていてや相手のいる前でだけ取り繕ってもその取り繕っている自分が自分で理解できるようにすでに信頼足りえないのだから信頼は自他と築けるはずはない。
本心や本音というものも、自分から自分を信頼している場所で自分が心底認めている自分の正直な立ち位置で自分を裸にさらけ出せているかということでもある。裸になる勇気がないのは、自分を信頼できていないからである、自分を偽り隠しているから相手を信頼できない自分がいるのである。
信頼関係を人と築くというのは、誰かとではなく自分自身との正直な関係をどれだけ築くかということに他ならないのである。
それは相手から認められているかいないかなどといったことは問題ではなく、要は自分が本心から本気で誠実に自分を深く信頼しその場所で相手のことも深く信じているかといったその信頼の質量なのである。
幼少期に親から認められなかった子どもは大人になってもすぐに認めてもらえているかどうかに過敏に反応し探り不信や疑心暗鬼になっている人が多いけれど、その間違いを正さないことには何も改善することはできない。
間違いの修正とは、相手がいるところでしてはいけない、すべては自分の問題なのであるから自分自身が自分と向き合い正しく律して人格を磨いていくのである。
そのためにも自分に嘘をつかない、自分を否定しない、自分を責めないことは自分を認める事である、そういう自分を丸ごと一度すべてを受け容れることからはじめていくことが最初の一歩である。
そうやって本来の自分に矢印を向け正しく内面的な自分自身と向き合っていくことで、外の世界を改善していくのである。外に求める前に、自分自身を認めていくことからはじめていけばいいのである。
コンサルティングの本質は結局は自分との正対と誠の実践により自らの命の明徳を明らかにしていくことで人間を磨くことがすべてである。
日々をどれだけ謙虚に素直に感じるか、これからも子どもたちの社会のためにもその模範になるように取り組み実践を楽しみ尽くしていこうと思います。
コメント
最近、母が私に「人間一つ得意なことがあればいい」と言っていたことをよく思い返します。母もまた両親から言われていたとのことです。苦手なこともあってもいいという意味が含まれていること気が付きます。母がそのことを考え言っていたとは考えにくいですが、母から教わった大切なことだと感じています。
自分自身にたまに不安に思うこともありますが、カグヤには理念がありいつも明るく楽しそうに話すクルーの姿を見て取り戻す事が出来る自分がいます。どんな自分も自分と捉え、頑なにならずその時の心境を、その時にしか感じられないことと考え、物事を楽しく、シンプルに捉え、深くまじめに考える自分でありたいと思います。