よく師弟関係という言葉を用いることがあります。何の道でもそうですが、何かを習い始めては師がいますが師がいれば自分は弟子となります。しかし本来の師弟というのは一体だと私は信じているのでむやにやたらに誰かを師にすることはありません。
吉田松陰にこのような言葉があります。
「師道を興さんとならば、妄りに人の師となるべからず、又妄りに人を師とすべからず。必ず真に教ふべきことありて師となり、真に学ぶべきことありて師とすべきし。」
これはかなり厳しい言葉にして、師とするな、師となるなといいます。真にこれは教えなければならない学ばなければならないことの時にだけ師となれというのです。
吉田松陰や孟子の著書を沢山出版している川口雅昭氏がこれを解釈しています。「この言葉はよく一般論として、教師、上司はこうあらねばならないという引き合いにだされるが、実はそうではない。知識があるとか、品行方正、学術優秀な教師はたくさんいると。しかし松陰のいう師弟関係とは、国家のために死ねと命令したら死ね。死ねない人間は弟子になるな。これに対して弟子も、先生の言うことなら死んでもいいという。両者の思いがそのレベルで一致して初めて師弟関係となる。」
つまりは、お互いの「本気」「覚悟」があってのものということです。言い換えれば、師を弟子に置き換えた文章でも同じということです。「弟子道を興さんとならば、妄りに人の弟子となるべからず、又妄りに人を弟子とすべからず。」なのです。
思いを同じくするというのは、知識が多いから師匠と呼ぶのではなく、経験が豊富だから師匠というのではなく。師弟一体になりたいと願う、魂の求道なのです。それだけ一心同体になって物事に真剣になりたいということなのです。
私は孟子の私淑という言葉が大好きです。私淑とは「孟子巻第八離婁章句」に書かれている言葉です。
「予未だ孔子の徒たるを得ざりしも、予、私かに、諸を人に淑くするなり」
意訳ですが、私は時代が異なり孔子の弟子になれなかったけれど、孔子の遺した徳風から様々な薫陶をうけそれを学び周囲の人々に伝えていたのです。つまりは「ひそかにその人を師にして尊敬し模範として学びます」という言葉です。
孟子の姿勢は孔子にとって一心同体のように私には思うのです。それだけ本気だったということ、それだけ同じ夢を目指したという事、ここに真の師弟を観るのです。単に自分が学ぶために師とするのではなく、師と同じ夢を持つという事、同師というのかもしれません。
師道を興すというのは、後に続く者たちへの夢を遺すということです。
本気度で師に刺激をいただく日々に感謝しつつも自戒ばかりが頭をよぎります。子どもの前に立っているのだからこそ、子どもが背中を追いかけてくるからこそ、決して自分のために行うのではなく、やったりやらなかったりするのではなく、真摯に至誠の実践を積み重ねていきたいと思います。
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生きていく中でいくらでも妥協点は探せますが、生き方を定めると妥協出来ない事が出てきます。しかし、それをどの程度の危機感で行っているのかという事については、あまり自分の中で問いをしてきていないことに気付きます。死ぬまでに生き方が磨かれればいいのか、今年中にでもなのか、今すぐになのか。そこに、何のためにという自分の問いかけに対する危機感が表れるのだと感じました。自分の為でなく周りのためにと決めた一年です。もう一度、自分の心づもりと対話してみたいと思います。
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「親子」「夫婦」という縁も深く、仲間意識の強いものだと思いますが、「師弟」の縁は、もっと深くて厳しく、一体で「使命的なもの」ではないかと感じます。また、その人生は、決して「自分のため、自分たちのため」ではなく、人類のため、国家のため、そして、未来のために、「師は師の道を」生き、「弟子は弟子の道を」歩むのでしょう。自分の「弟子としての覚悟」がまだまだ甘いようです。
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孟子に見るその姿勢に実践の意義を感じました。本に書いてあることを鵜呑みにせず、実践して掴み体現していくことは、自分にもできるのだという期待感を感じます。ただ希望があっても先に諦めてしまうのは自分かもしれません。ただ身近にいる仲間に助けられ、もう一回やってみようと思えるのは今を共に歩んでいるからなのだと思います。【●】
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「真に教ふべきこと、真に学ぶべきこと」自分にとってはそれが目指すべき生き方なのだと感じます。社業に勤めるのも武道に励むのも、そこに子ども達に遺してあげたい生き方があるからです。昨日も仲間の生き方に感化されるものがありました。同じ実践にしても何を真似ぶのかを誤らないようにしたいと思います。