人は知識があるないにかかわらず、信じているか信じていないかは言葉に表れて出てくるものです。何のために知識を持つのか、それがかえって不安材料になってしまうのではせっかくの知識がうまく活かせないことになるかもしれません。
先日ある人が、若いときは「できないことが増えるから挑戦したくない」ということを言っていたという話を聞きました。優等生で優秀であったために、何かをすればできないことが増えるから何もしたくないという心理があったとのことです。それを聞いた周りの人は「できないことが増えるのはできることがそれだけ増えることだからもったいない」と言っていましたが、その人はできないことが増えることは可能性が広がるという考え方でした。
同じ事柄であっても、できるできないをどう捉えるかというのはその人のセルフイメージが決めています。セルフイメージとは自分の心と思いのことです。自分の中で何を信じているか、自分の中でどのような思いがあるかということに気づけば自分の努力の方向性が分かるようにも思うのです。
人は対話をします。その対話はただ言葉を行き来させているのではなく、その人の心や感情を伝えるものです。いくら上辺を繕って表面上は誤魔化してみても、心はそのまま相手に伝わります。心や思いがどうなっているのかは、語らずとしても伝わるものです。
これを以心伝心といいます。信じるということもこれに似ています。その人が言っているから鵜呑みにして信じるではなく、自分から能動的にどれだけ信じようとするかということが大事なのです。
言葉にはその人の信が入ります、そして眼差しにも信が入ります。信じ合っている絆は強く簡単には崩れません。しかし信が弱くなれば、絆は脆くなります。お互いが信じ合っているという関係を維持するのは、お互いにその信を送り続ける努力が必要なのです。
信じるというのは、自分が信じる実践を積み重ねていくことで溜まっていきます。自分との約束を果たし続けていたり、自分に打ち克ってきた場数によって信はより篤く盤石になっていきます。もしくは自分の信じる人が信じているものを一緒に信じることでその信を結び信頼の手綱を握り合うこともできます。
目には見えませんが、その信があるからお互いに頼り合うことができるのです。自立というのは、信頼関係を築けるということです。つまり自ら信じることができるようになるということです。
信じさせてもらおうという態度では、いつまでも他人のせいにできるような姿勢では信じることは難しいものです。自分を如何にだまし続けるかは、自分が如何に信じ続けられるかです。本来の知識とは、自分を信じ騙すためにあるもののように私には思えます。そしてそれは信じる方も同じです、信じているかどうかが相手の信の礎になるのです。
どんな情報も知識も受け取る側の考え方次第ですから、それを善いものへと転じるのは具体的な実践による智慧に換えた時に変わるように思います。知識をどのように活かすかは、その人の生き方ですから長い目で観て世の中を仕合せにするために遣っていきたいと思います。
子どもたちのためにも、できるできない、分かる分からない、知識か智慧かではなく、信じるということ。何よりも主体的に心を育てて思いを揺るがないものに成長していきたいと思います。
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「人間関係は、『信』によって成り立ち、『疑』によって滅ぶ」と言われます。魔は、隙を見て、人に『疑』を入れてくるといいますが、一旦、『疑』を入れてしまうと、なかなか『信』に戻せません。隙を突かれないためには、油断せず、常に『信』を出し続けなければなりません。また、『信』とは、理屈や条件を超えたものです。一人考え込み、「説明を求める心」が顔を出すようなときは注意したいと思います。
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子ども達をみていると、上の娘は一つ上のお友達のようになれることを疑っていません。また、息子は姉ができる遊びを自分が出来るようになることを疑っていません。しかし、今はまだ出来ないことも知っています。ではどうしているのかを聞いてみると、例えばあやとりの場合、自分で何回もやってみても分からない時は上の子に聞きに行ったそうです。すると、上の子は娘が出来るところまでを何回も見届け、難しいところが分かるとそこから先を手本を見せてくれて出来るようになったと言いました。しかし、手解きを受けてから娘はそのあやとりを何日も何時間も四六時中自分で練習し、自分のものにして行く姿を見ました。今では考えずにソラで出来るようになっている姿を見ると、改めて娘が何を信じていたかが分かります。それは、ただ出来るようになるのではなく、神業のように高速で無心で四段梯子を成し遂げるあの人のようになれると信じていることに気付きました。娘が信じている高みが分かると、親の環境作りも変わって行かなければならないと、感じました。また、他人ごとではなく、自分自身に置き換えても、何をどの高みで信じ、そして努力をしていくのかは、子ども達から学ぶところがとても多いです。
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今週は「間」というブログから仲間との別れを想像することから始まり、実際に仲間が休み明けから病欠することになったことをうけ、いよいよ仲間の存在の有難さを身に染みて感じました。シャッフルと言えど、業務や役割は代われても、その人らしさ・その人から受ける影響や励まし・その人の存在自体に代わりなどいるはずもなく、そう思えるのもまた「信」なのだと感じました。そして仲間が各々の今年の一文字に挑戦している姿から、自分もまた励まされていることを感じた時、挑戦は決して自分一人のものではなく、皆との繋がりの中での挑戦なのだと実感しました。
カグヤは子ども第一主義、そしてそこに向かう夢や志は人それぞれ少しずつ違うかもしれませんが、今年の一文字のように、各々が自分の初心を大切にして挑戦していくことが、そのまま皆の目指すものに繋がっているように思えます。その一翼を担っている自覚をしっかりと持ち、その自分が与える周囲への影響力を忘れず、「ニコニコ顔で命懸け」な日々を生きたいと思います。
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先日のコメントに自戒の言葉をまとめるとしていましたが、新たに今日からスタートです。同じ言葉であっても昨日と今日とでは受け取る自分がいて、また新しいことを教えて頂きました。自戒の言葉はいつものパターンに陥らないよう、ふざけているかもしれませんが大きな変化です。自分が自分を信じられるよう、繰り返していきたいと思います。【●】