生きていると様々ことから病気になることがある。
病気になるには、何か病気になるような歪のキッカケが過去に在りそういう因縁が表出することでバランスを崩すことで心身ともに体調を崩すこともある。
病気には体に出たりすることや、心に出たりすることもあり、病気になったのならそのどちらにも影響があるのだからそういう時は根本から癒え治るのをじっくり待つことが何よりも肝心でもある。
病気とは、誤解があるけれど過去の何かのキッカケから歪んだしまった心の曇りや日々に曇っている体の解毒、浄化というようなことをする行為でありそれは決して悪いことなどではない。
病気になるのはそういう今までの何か不自然な生き方や、自分に我慢をしたり無理をした何かをすべて受け容れる作用でもあり、それをじっくりと自分自身を見つめてあるがままに認めていくことで平癒していくのであろうとも思う。
病気の時に、急いで焦り感情に囚われてままでわざわざ夢を必死に語ったり心身が疲れているときに目標に向かって命懸けでやろうなどとはそれはおかしな話であり、そういうことをせず無理をせず全てを諦めゆったりと癒えるのを穏やかな心で生き直すことが先人の教えと叡智にもある。
根治するとは、それは次第に心身の曇りが取れ、まるで天気が快復していくように澄み渡っていく空を待つことである。健康とは、素晴らしいもので心が晴れやかになれば空も澄み渡り、身体が元気になれば自然の躍動の中にいることを実感できるのである。
世界の全ては、自分の感じ方や捉え方、その心のままが顕われているのである。
何かに心や感情が囚われると、どうしても人はマイナス思考になってしまうものである。そうなると、なぜ病気なのだと自分を責め立て自分が病気であることを思い悩み焦りいつまでも病気の意義を丸ごと受け容れようとはしなくなる。
これは何の病気でもそうだけれど、生命にはすべからく宿命といった天の絶対的な定めがあり、それは自分中心の考え方ではどうしようもないことばかりなのである。それを如何に静かに受け容れ、それを如何に善いことへと生きるのを転換していくのが自分本来の生き方というものになっていく。
病気の時こそ、自分の生き方を見つめ直す好機だと思うことが大事だと思う。
自分の今までを振り返り、そして今までを許し忘れ、そしてこれからの楽しい未来のためにどのような生きざまを刻んでいくのかを決める事。そういうことから病に向き合うことで、癒していくのが人間が育つということの本意であろうとも私は思います。
しかし病気の時に自分だけでそれを健康的な心で向き合うということ自体が無理があるのが分かります。だからこそ誰かの心の支えや共感がその人を病から解き放っていくのでしょう。
人間は皆誰しもその人にしか分からないようなつらい過去があり何かしら受け容れられないような苦しい体験は持っているものです。しかしそういう体験があるからこそ人に優しくなることができ人は支え合い、助け合い、愛を持って健やかに生きられるのだとも思います。
自分の苦しみを受け容れるのは結局は自分にしかできません。
だからこそ、病が癒える事、そしてまた健康に生きていけることをただ真心に祈ることが私自身のかんながらの道の一つだと信じています。
まずは、自分から祈りの実践を歩み、人々の心の基礎に明徳といった直き心を開花させていくことを継続していこうと思います。
コメント
今、日本の医療は、全て西洋医学の考え方に拠って進められています。熱が上がれば熱を下げ、血圧が上がれば血圧を下げます。
私は長く介護をしておりますが、以前はできるだけそれを守って薬を飲ませていました。例えば、父が夜間徘徊しないよう睡眠薬を与え、血圧を下げるために降圧剤を与え…といった具合に。
しかしある時、そのことに疑問を持つようになりました。確かに、血圧が高ければ徘徊しやすい面があります。また、卒中や蜘蛛膜下の危険度も上がります。
しかし、悪いことばかりではありません。意識がはっきりして、普段あまり出てこない言葉がたくさん出てきます。意思の疎通ができたりもします。また、排尿や排便が一人ででき、失敗も少ないです。
ところが薬で血圧を下げたり、睡眠薬で眠らせると、徘徊はないものの、意識がはっきりせず、トイレも上手くできません。
では、どちらが父にとって幸せなのでしょうか?私は血圧が高い状態のほうが幸せなのではないかと思い、だんだん薬を与えなくなりました。そして、徘徊を始めたら、それに付き合おうと決めました。
それから月日は流れ、今では体力が衰えて、徘徊はなくなりましたが、あの時の決断は間違っていなかったと考えています。
父は車でのドライブが好きで、元気であればいつも車に乗っていたい人です。それで、ここ数年は1年365日、雨の日も風の日も両親を乗せて、朝夕ドライブに出かけています。
そして、ピクニックのように、そこで一緒に食事をします。すると、家では食の進まない父が驚くほどよく食べてくれるのです。
野見山氏が指摘されたように、病は何かの歪みや、無理や我慢によって、体のバランスが崩れたことで起こります。
だから、症状を抑える西洋医学だけで『平癒』に導くのは難しい。それより、再度バランスを構築するために何が必要なのか、見つめ直すことが必要なのですね。
従って、病を得たということは、自分だけでなく周りの人も含め、まるごと受け入れる大きな心構え『慈愛』が試されているのだなと思い知りました。
野見山氏、この度も病についての貴重な学びをありがとうございました!
コメント
病気に罹ることは気の持ちようで病人にしてしまうと思います。周りの環境により病人にされてしまうこともあると思いますが、心まで病むかどうかは「気」が関係してくると思います。気功のように目に見えない気の流れを意識し取り入れることは自然からのエネルギーの力が影響しているからではないでしょうか。気功に関する最古の歴史は新石器時代「亀の呼吸をしている人の絵」とのことで4000年以上も前に遡り昔の人も、自然からエネルギーを活用していたのでしょう。
普段息をすることをあまり意識しないですが、走っている時体中を使い、息をしていることがよくわかります。無意識レベルで行われている行為に意識を持っていく事が、自分自身を知り気付かせることであるのではないかと思います。自然に存在する「気」のエネルギーについて感じるために意識を向けていきたいと思います。