昨日のブログに言葉の定義を書いたけれど、その人の使う言葉が自分の知っている言葉ではないということをまず理解することが大切だということである。
例えば、孔子をはじめ過去の聖賢と言われる人たちが語る言葉に、至誠、忠恕、真心、思いやりなどというものがある。
君子というものがどういうものか、それを聖賢は実行したのちに言葉にするもののことであると様々な文献で定義してある。陽明学の知行合一というのもそのことを再三書いていても、それを読み解く人がどれだけの心の場所で聴くのかではその解釈も同じではない。
吉田松陰の言葉に至誠というものがある。
毎年松陰神社に参り、純粋純心な気持ちで自分が学問をしているか、そして学びを世界のために自分を活かし切っているかを問うと、まだまだ私はこの吉田松陰がどこまで至誠というものを語っていたのかが分からないのではないかと思うことばかりでもある。
松陰が語る至誠には、「妙なるもの」という定義がある。
とても神妙な世界、真心を持ってすれば決して動かないものはないという単に国家のことだけを憂い維新をしたかったのではないのではないか。
その妙なる至誠の生き方とはどういうものか、それを人生で試してみたかったのではないか、そういう純心な気持ちが如何に天に通じて奇跡と一体になる感覚を持ち融通無碍の境地を楽しみたかったのではないか。
それを思う場面が所々にある。
私が尊敬する一人の諸葛孔明にしても、同じように学問を静かな境地、つまり神妙な場所で学びそれを理想と現実の中庸にて真実を体現した生き方を示した。
自分自身の生を、自分自身の命をどこまで昇華できるのか。
聖賢はすべてにこの「妙なる境地」を学んでいるように思います。
子ども達には志とは何か、学ぶとは何か、生きるとは何かを、私自身の生き方で示していければと思います。吉田松陰の至誠という言霊の機縁に出会えたこと心から感謝しています。
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同じ言葉を使っていても、誤った捉え方異なる使い方をしていたのでは意味通りに伝わっていないことであり、実践をして感じたことを確認することの大切さを感じます。以前ワンピースのお話で作者が文献を探したけれど、ほとんど残っていなかったと社長より聞いたことがありますが、冒険(=実践)が先で記録は後という話の例は、聖賢や陽明学では言うところの知行合一ということでしょうか。
学んでも学んでも、途切れることがないのは、実践者としての姿勢であることを感じます何を学んでも初めてのことばかり、素直に謙虚な姿勢で学ばさせて頂きたいと思います。実践者であり、真実を体現した生き方を私自身示していければと思います。
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野見山氏のような若きリーダーから、道を求める並々ならぬ決意と気概をお聞きするのは、大変心強く嬉しいものです。『至誠の境地』も真摯なる求道者のみが会得できる境地なのでしょう。
しかし、まだそのレベルに遥か及ばない、道に志す前の私にも、日々学びのヒントは与えられるものです。今日は敬老の日。ご老人がどれほどありがたい存在か考察したいと思います。
昔、野見山氏とドイツ在住の友人宅を訪ねたことがあります。その友人が、近所のご老人のお葬式について、大変興味深い話をしてくれました。
その地方では荷車にお棺を乗せ、ゆっくり共同墓地まで野辺送りにするのですが、、近所の子供たちは皆お棺に手を当て、泣きながらお別れをすると言うのです。そしてこれが普通の情景だと…。
ドイツやイタリアでは、小学校の授業は原則午前中で終わり、子供たちは帰ってお昼を食べます。それで、家に誰もいない子供は、自然に近所のお年寄りのおられる友人の家に集まるのです。
そして、子供の集まる家にはお年寄りも集まることになります。結局子供たちは午後からの半日、お年寄りに見守られながら、遊んだり宿題をするのです。ですから塾に行く子もいません。
そして、実際に自分が勉強を見てもらったり、おやつを作ってもらったお年寄りだから、お別れの時には自然に涙が出るのです。
昔の日本なら、これに似たような風景が、あちこちにあったのではないでしょうか?
野見山氏がよく指摘される通り、アメリカ型の『自立』教育が『孤立』をもたらし、適材適所のバランスが壊れたのです。
私たち庶民は、どんどん人間関係を結ぶのが下手になり、団結することもできなくなっています。特に学生たちの団結力の無さには、将来の不安を感じます。
しかし、このような状況は偶然に生じたものではありません。大衆の団結を嫌う権力によって計画的に仕組まれたものであるということも忘れてはなりません。
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社内の実践で論語を読んだり大学を読み学ぶことがありますが、学ぶという事を一つとっても昔の偉人の方が使われた言葉の意味と私たちが日々使っている言葉では意味がかなり変わってくるのだと感じます。今回のブログを通して頭で考え続ける事も大切だとは思いますが、それと同様に又それ以上にその言葉の意味を自分の行動に落し実践し続ける中で本当の意味に触れる事が出来るのだと感じました。まだまだ私自身、解らない事ばかりですが、そこを否定的にとらえず肯定的に考え、人としてどう生きるべきなのか、自分の実践から見いだせて行ければと思います。