今の時代は君子や志士というものが何であるかということがあまり明確に定義されていないように思う。
明治維新の頃もそうだけれど、歴史で顕われる志士とは一体どういうものか。
吉田松陰は、志士ということをこう定義している。
「志士と云うは即ち道に志すの士なり、即ち君子なり」(武教全書講録)
つまりは、道に志す人物こそが即ち君子だという意味になる。私も最初は君子とは、徳が高い人や立派な人だと思い込んでいたけれど維新の時代は君子を目指すということは志士であることをいうことであったのだと自分が思い違いをしていたことに気づいたことがある。
今ではあの西郷隆盛も坂本竜馬も高杉晋作も、有名な志士をはじめ日本全国から出土した志士たちはすべて学問により顕われた君子であったのではないかとも思う。
そして同じくこの君子とは何かということを孔子は弟子とのやり取りの中で下記のように定義している。弟子が君子とは何でしょうかという問いに対して、
「まずその言おうとすることを実行してから、ものを言う人物のことである」
と応えている。
つまりは、まず真心で先に行動しそれを理論化しているのでありその信じる道がまずどれほどのものかということを語っているのだと思う。知行合一の本質は、言葉を先にしないということである。
私の師が、先日の講演で「私は目の前に子どもがいるのに理論から信じない、理論を信じる前に私は子どもを信じます」と話をなさっていたけれどこれも同じく道を志す君子が放つ言霊であると思う。
私はこういう言葉を聴くとすぐに全身が衝撃を受けたように痺れてしまう、道を志す中で顕われる言霊はいつも感動のエネルギーを滾々と湧き出してくれるように思います。
志士とは、何かを語るのではなく実行して世間や社会でその真心を体現させるものだと思います。
私たちの目指す道もまた志の中にあるものであり艱難辛苦や逆境は志士には最高の栄養分となります。
君子と志士の共通点は道を得るかどうかによるということ。
私たちはより大きなもののために命の道を歩むことを真摯に楽しんでいこうと思います。
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目の前の出来事一つ一つが生き方そのものを現し、道に続くと思うと自分自身の決断に後悔のないものにしていきたいと思います。後悔したことを振り返るのではなく、決断したことに自信をもって次に進める自分でありたいです。
今はただ実践をする事が大切だと感じています。
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今の時代理論を語るという事は良く目にします。しかしそれが心に響かないのは何故かという事を考えた際にすぐに実践という事に繋がります。逆に言えば、「知行合一の本質は、言葉を先にしないということである」とあるように実践から掴み取っている方の話しは自然と心に響いてくるのだと思います。実践を行う為に何が必要なのかを考えた時に志の大切さも今は感じます。しかし志があっても言葉だけの物であればそれは志があるとは言わないのだという事も気づかされます。志=実践となるような生き方を自分自身目指していきたいと感じます。