人は物事を体得するのに現場実践というものがあります。これは頭で考えるのではなく、からだで気づくというような学び方です。
例えば、保育者であれば子どもから学び、農業者であれば田畑自然から学び、仕事であればお客様から学ぶという具合です。座学と違うのは、教室で何かを机に座って教えてもらうのを待つのではなく自分から動いてコツを掴みにいき、自らのからだそのものに染み込ませていくような学び方ができるということです。しかしここで座学か現場かという意味ではなく学問の本質は何かということです。
実際に私たちが学びを深めるとき、そのもの本来の姿から学ぶという姿勢は教えてもらうのではなく自ら学ぶという精神です。誰も教えてくれなくても教科書がなくても、もしくは技術が足りなくても道具がなくてもそのものから掴み取ろうという自学自悟の精神です。
そもそも誰かに教えてもらった知識というのは、自分の中で本当に体得した真実ではありません。体得していない知識は智慧でもなくすぐにその他人の知識の範疇を超えた現実を見たら常識に縛られ自分にはできるできないという二者択一しかなくなってしまいます。本来は、できるからするでもなく、できないからしないではなく、何があっても必ずやり遂げるという覚悟の物差しを育てるのが学問の本義かもしれません。
本来、実践しているから本を読むのであって実践しないために本を読むのではありません。自分の中の気づいたことが何だったのか、それを確かめるために自分の中で言語化し体系化し知識化していくのです。
人生というものは、知識が先か体験が先かといえば、太古の昔から体験が先なのは誰でも知っています。赤ちゃんが知識がなくても生きていけるように、動植物や周りの微生物にいたるまで知識がなくても発達していくように、本来は体験を通して気づき学んでいくのです。
今の時代は、疑似体験やバーチャルリアリティで済まそうとしますがいくら結果は体験したつもりになっていてもそれは頭で思い込んだだけで全身全霊のからだの感覚すべてで気づき得たものではないのです。
私にとっての学問の本質は「試行錯誤」です。失敗からはじまるのが学問であり、色々と試して挑戦していく中で最期は完成するのが学問です。簡単に言えば、最後まで諦めずにやってみることです。
最初から答えがあるかのように思い込んで、答えを探すために知識を得るのではなく、誰も見つけたことのない答えを自分自身で出してみたいと取り組んでみることが大事なように思うのです。
もしも教科書のように答えがあるとするならば、学問の答えは試行錯誤です。間違わないように真摯に実践を深め、気づきを喚起し自学自習を続けていきたいと思います。
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分かることより出来ること、教えることより、出来るようにすること。今チャンスを頂いているのは、そういう見守る事が出来る人間になる機会を頂いていると言うことだと感じます。保育を深める豊かさをもっと世の中に広めて行きたいなら、やっぱり自分がもっと頂いている機会をちゃんと掴むこと、挑戦しやり切る事が大切だと思います。今日も、頂いたご縁に精一杯やり切りたいと思います。
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ほとんどの教科書は、「答えがある」という前提で作られています。これまでの時代は、同じ問題が繰り返されることがたくさんありましたから、「答えを知っている」ということに価値がありましたが、現在は、過去の「教科書」では解けない問題が増えています。「新しい問題には、新しい発想と新しい智慧」が必要です。「正解思想による答え探し」はそろそろやめないといけません。
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いつもはしない勉強も試験前は行い、終われば授業に出席するそんな繰り返しをしてきたました。短期集中で試験に挑む分、勉強した気にはなり試験が終わると解放されたような気分になりますが、今のほうがよほど答えのない問いを問い続けているように感じます。これまでの癖かつい答えを求めようとしてしまいがちですが、実感して気付き行動した分しか分かっていないことを感じます。実感できるのも体験があってのことです。遠くから見ているのではなく自らもやるそのことを大事にしたいと思います。【●】
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自分の人生の意義や目指すべき人格は誰かが答えを持っている訳ではなく自分で求めていくより他はありません。事が起きれば気は焦りますが、一生をかけてのこの難題だからこそ、今は信じて粛々と試行錯誤を続けていきたいと思います。ありがとうございます。