鹿児島に来ると、いつも西郷隆盛を深めています。他にも鹿児島には郷中教育をはじめ、数々の智慧が風土に遺っています。厳しく雄大な大自然の中で育まれたその思想がかつて日本全体を動かす維新回天の原動力になったことも頷けます。
その風土の模範のような人物の一人が西郷隆盛です。
「不怨天、不尤人、下学して上達す。」があります。天命を知る者は天を恨みず、己を知る者は人を恨まず自らの修養に徹せよというように、自らの不遇を全て受け容れて天命に生きた実践、まさに「敬天愛人」を座右とした西郷隆盛の人格的魅力に強く惹かれます。
何より正義感が強く正直であったからこそ数々の誤解を受けては酷い境遇に晒されていきます。しかしその中で仲間を大切にし、自らの信念を貫き、多くの人たちから必要とされその都度自分を天に委ねては人情に真心を盡していきます。
勝海舟からも、西郷は人に好かれ過ぎた、早死にするのは分かっていたというように評されていたり、英国の外交官だったアーネスト・サトウも西郷がほほ笑むとなんともいえぬ魅力的な表情になったと言われます。
もう時代が過ぎて残り香もわずかですが、その書物や周囲の人たちの発言からも人徳の薫風が伝わってくるものです。人から愛され、天からも尊敬される生き方というのは、無我無私であり思いやりに生きたということなのかもしれません。
西郷隆盛の人柄を思うとき、もっとも好きなものに西南戦争の終焉に際したときの中津藩の隊長、増田宋太郎の手記の話があります。
この増田宋太郎は、敗走する薩摩軍が最後の場所と決めていた鹿児島の城山に向かうに際し、中津隊員の皆に君らは中津へ帰れと指示して自分自身は一緒に城山で西郷に殉じると言いました。なぜひとりだけ残り西郷に殉ずるのか不審がる隊員たちに増田宋太郎は涙しながら話したといいます。
「われ、ここに来たり、初めて親しく西郷先生に接することを得たり。一日先生に接すれば一日の愛生ず。三日先生に接すれば三日の愛生ず。親愛日に加わり、去るべくもあらず。今は、善も悪も死生を共にせんのみ」
意訳ですが、「私はここにきて西郷隆盛先生に接する機会を得ることができた。一日、西郷先生に接すると一日の真心をが生じた。そして三日間、西郷先生に接すると三日間の真心が生じた。もはや西郷さんと一緒にいる真心が一体になり、別れることもできなくなった。今はもう善も悪もなく、その死生を共にしようと思っている」と。この増田宋太郎の享年は28歳です。
西郷隆盛の南洲墓地が、鹿児島市上竜尾町にあります。
情を愛した仲間たちと一緒にその真ん中に坐する西郷隆盛に触れていると、「仲間を大切にする」ことの本質を改めて学んだ気がしました。私は鹿児島に御縁をいただいてから、人生の情について考え直すようになってきました。
偉大なひとさまにいただているご縁に感謝しつつ、御蔭様の日々を精進していきたいと思います。
コメント
善も悪も無く、生死を共にしようという思いは、
我が子や家族に対する思いと同じ様に思います。
正しいから一緒。間違っていたら離れる。そういった善悪を超えて、共に福にしていく関係は、価値観を変えて行くと感じます。今は、うまくいかないと離婚や、離縁と言うことが増えているかも知れません。その価値観では、自分の価値観も増えませんし、必ずどちらかを裁く事になります。
自分の価値観がそちら側でないか。もっと愛し愛され、福となる価値観を持って行きたいと思います。
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「己を愛するは善からぬことの第一也」修行ができないのも、事が成らないのも、過ちを改めることができないのも、功を誇って慢心するのも、すべて自らを愛するからだと西郷さんはおっしゃいます。西郷さんの「無私」の徳が、これほどまでに人を惹きつけ人を動かすのは、この「自愛の甘さ」を抜け切っているからでしょうか。克己により「人間の甘さ」を抜け切る厳しさが、限りなき慈悲・慈愛に換わるところに、修行の真の魅力があるのでしょうか。
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「情」ということだけでも難しいことですが、人生における情となると計り知ることができません。一時的に情けを掛けることはあっても、それはあくまでも一時でまだまだ本物には程遠く感じます。目の前の一つ一つを疎かにせず、今できる最善を尽くしていきたいと思います。【●】
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「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人」そのような人から受ける情の深さはどれほどのものだろうかと思います。「隆盛を極める」という言葉もありますが、西郷さんの生き方を観ると、その言葉がまた違った意味に感じられてきます。本当の隆盛とは何か、兄と名を分けたこの一字との御縁の意味を味わっていきたいと思います。