自我欲といった欲望とは何かと内観してみるとある一つのところにたどり着きます。それは御蔭様の心を見失うということです。人の謙虚さとは何か、それは際限のない欲望に己が打ち克つことのように思います。
協和発酵の創業者加藤辮三郎の言葉に「欲望に限りがなく、些細なことにも腹を立て、おかげさまを忘れて自分の行為には高い値をつけようとする。 」があります。
如何に自分が能力が高いか、如何に自分が優れているか、如何に自分が価値があるかと、人はその自分というものがよほど特別であると思いたくなった時こそ、欲望に呑まれるように私は思います。
本来は自分の力ではないものを、本来は御蔭様で今があるのを忘れては、俺が俺がと自分の優秀さを周囲にひらけかしさも自分が特別な力を持っているかのような錯覚に陥るとき、人は絶対観から相対観に移行し、本来の原点や初心を忘れては我欲のままに周りに我執をまき散らすのです。
今の時代、毎日は大変からも知れませんし自分ばっかり苦労していると思いたくなるのも仕方がないことのようにも思います。だからといって頑張った頑張ったからと真面目過ぎては周りに矢印を向けて、御蔭様であったことが観えなくなり、不平不満と愚痴ばかりを言っていて大切な生き方や働き方を見失ったなら、一体何のためにやっているのかと自分自身が一番悲しい思いになるのです。
大変な時こそ笑うのは、自分ばっかりという我執を捨て去るためです。本来は自分は周りの皆様の御蔭様で存在できていることを忘れず、自他実現のためにと自分の役割を全うしその仕合せに感謝できることが我執に打ち克つことのようにも思います。
自分への執着よりも如何に自分に向き合うか、人生の課題はいつも自分の生き方の中です。相田みつをさんの詩に「いいことはおかげさま、わるいことは身からでたさび」があります。
まさに他人のせいにしないときが、御蔭様の心を忘れていない時だということです。
まだまだ相対的なものの見方に囚われ我執に呑まれてしまうことばかりです。絶対的な境地にはまだまだ到達できませんが、子どもの憧れるような生き方を志した以上、その道から外れるわけにはいきません。
日々の一期一会に感謝して、御蔭様を片時も忘れない自然の姿、かんながらの道を実践していきたいと思います。
ありがとうございます。
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人を相手にすると、どうしても「相対的」になります。神に嫉妬して地獄に落ちた天使がいると聞きますが、それは、神を、信じ感謝する存在ではなく、自分の能力との比較対象にしてしまったからでしょう。比較によって優越感を刺激し、劣等感を生じさせてしまうと、自分を守り、自分を救うことでいっぱいになります。また、比較によってないものねだりを始めると、不足感から脱することができません。「感謝」を見失ってしまう根本的な要因である「相対観」に注意したいと思います。
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謙虚な気持ちは波のようです。穏やかなときもあれば激しいときもあり、傲慢になっているときは波が立っていることすら気がつきません。一見欲がないようで、実は自我欲がものすごく強いのだと感じます。自分に打ち克つ笑顔の実践を大事にしていきたいと思います。【●】
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周囲を基準にしたり比較するような相対的な観方では、結局は受け身の生き方にしかならず、真に主体的な生き方を望むなら絶対観が必要なのだと感じました。「自分に矢印」という言葉も、それを思うとまた新たな感覚を得ます。今週は身体こそ無理をさせてしまいましたが、心は穏やかで晴れやかだったと感じます。この「主体的」に「生かされる」という一見矛盾するような感覚を大切にしたいと思います。
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いつもお陰様の気持ちでいられないのは、まだまだ自分の軸足が自分に置かれているからだと感じます。身から出た錆は、それを見つめること、向き合うことで、それもお陰様になるからこそ、やはり軸足を間違えないことを大切にして行きたいと思います。