人間は自分か相手かという相対の世界の中でお互いの我をぶつけあう生き物です。比較対象というものも、相対の世界を強めるものです。自分か相手かという言葉も、自分というものを強めることで我を強くし、そのことから我の方ばかりが大きくなってしまいお互いが自分の我に呑まれて相対の世界に刷り込まれます。
本来、自然界には自分という認識はなく草花、木々、昆虫、動物にいたるまで丸ごとで一つというお互いが分かれていない絶対の世界に存在しています。自分の認識は自分たちであり、人間のように人間だけが住んでいる世界にいるのではなく地球の一部としての認識の中に存在しています。
地球の一部としての認識から謙虚であるため、絶妙な調和の中で取りすぎず、奪いすぎず、分相応にほどほどにしつつ暮らしていくのです。自然界の生き物は、この世の全てを自分のものにはできないことを自覚しているように思います。それに別にそんなことをする必要を感じていないのです。終始いのちの道に沿ってあるからです。
人間だけの世界では、相対的に物事は分別されます。男と女、大人と子ども、あなたと自分、水と火、並べれば無限に存在します。どちらか片方に偏れば、その比較の中心は自分の我になります。この我というものは大変な曲者で、自分の理想が高ければ高いほどに同時に我も強く大きくなってきます。
そんな時は、絶対の世界の御蔭様や有難い、勿体ないや見守るなどといった分別することができない自然の世界、言い換えれば謙虚の実践の中に回帰することで我を中和でき中庸に近づけるように思います。
自分を修めるというのは、己に克つことですが、自分を活かすというものもまた修養であろうと思います。日々は、どれだけ自分が周りと一体になって仕合せにいるかの修業です。自分自身の思いを高めると同時に、周りへの思いやりの実践を篤くするというように他己実現を目指していくことで自他一体の境地に入れるようにも思います。
自分が自然の中で活かされていること、その徳によって存在させていただけることに気づき、その徳に対してどう生きるのか、如何に自然とともに天を敬い、自他と正対し人を愛するかは、絶学を継ごうとする志、またそれがいのちの道であり人生の醍醐味です。
絶対と相対ではないのが自然の境地ですから遊び心で愉しみながら、今日もかんながらの道と出会っていきたいと思います。
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「思いを高めると同時に、周りへの思いやりの実践を篤く」。この言葉に惹かれると同時に、もっとできる、まだやれる感覚が湧いてきます。思いを諦めないのは夢の途中だからで、一緒にやれる仲間が近くにいるからだと思うと、有り難い機会を頂いていることを感じます。もしかしたら、悪賢く生きる方法もあったのかもしれませんが、やはりこの道が進むべき道なのだと感じます。思いを高めることをもっと自ら挑んでいきたいと思います。【○】
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「分別」によって、ものの構造を知り、細部まで理解することができるようになりましたが、同時に、「分別」によって、世界はバラバラにされてしまいました。また、分別による「二元論」によって、世界の認識力は高まりましたが、反面、「無分別の智慧」を見失ってしまったようです。「分別知」の本質は、違いを明確にすることであり、それは、「言葉」によって決定づけられます。自然を「言葉」で理解しようとすると、最初からいろいろなものに分かれています。知っている「言葉」が多ければ多いほど、世の中を分けて認識していることを自覚しないといけないのかもしれません。
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この二日間を振り返ると、本当に有難い人々との出会いを頂き、今を思うと、修めることの目的を改めて思います。修めること、克つことが目的ではなく、そもそもの目的がやっぱり大切なのだと感じます。何事もない日々に戻すためにも、日々お過ごし方を頑張りすぎず、無理をしすぎず、意味のある一日を過ごせるようにしていきたいと思います
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自分の体調が悪ければ相手の体調の悪さに気づき、自分が苛立てば相手の苛立ちに気づき、自分が励まされたことによって相手もきっと励まされると思う。そんな風に、自分の感情だけを切り取れば善と悪に分かれてしまいますが、自分の感情も周囲のためにあるのだと考えれば全ては善いことだと感じら、そこからお役に立てる機会が生まれるように思います。自分を自分のために遣わず、生かされている中での幸せを大切にしたいと思います。