人は自分と向き合うということは何よりも大切なことです。誰といても他人は自分とは向き合ってはくれず、自分と向き合えるのは自分自身だけです。この向き合うというのは、簡単に言うと自分の本質から逃げないということですが向き合えないことでいつまでも現実から逃避してしまうことがあります。
自分と向き合うというのが、言い換えれば自分の道を歩むということですからよくよく内省し自分と対話をしていく中ではじめて一歩一歩前進していくように思います。
人は無意識に自分の願望や理想を持ち、憧れのようなものを抱くものです。ああなりたいやこうなりたいといった、自分の中に理想像を持ちます。しかし現実は甘くはなく、そのギャップを感じては今の自分から目を逸らそうとしてしまうものです。そうやって一度目を逸らしてしまうと、何度もループしいつまでもそこから離れることができなくなります。言い換えれば執らわれてしまうのです。
自分に執らわれるということは、自分と向き合わなくなるということです。そこを抜け出すためには、自分の心と真剣に向き合っていく必要があります。そして自分の中にある心と自問自答し、本質を見極めその都度決心をして本物になっていくしかありません。
人間はこんな自分ではないや、こんな自分はいやだや、こんな自分、自分と自分のことを思ってはその自分に執らわれています。自分が一体どうしたいのかを突き詰めるのではなく、なぜできないのかやどうしてできないのかばかりに執着するのです。
かつて自分と真剣に向き合うとき、死生観について考えたことがありました。かのアップルの創業者スティーブジョブズも、毎朝鏡を観ては、もし今日が人生の最期ならと向き合うことを怠りませんでした。
この死生観とは自分がどのように生きて、どのように死にたいかということです。自分の生き方、死に方と向き合ったとき、今、どうあるべきかも気づくのです。
人生は一度きりですから、本質と向き合わないでいたらあっという間に流されて終わってしまいます。だからこそ、初心を忘れずに自分の本質と向き合い磨き続けていかなければならないように私は思います。
同志というものや仲間というもの、道を共にし一緒に歩む戦友たちはみな自分と正対し自分と向き合っている人たちです。その人たちに恥じないように自分自身が常に向き合っているかは、何よりも志を貫徹するためには必要な実践です。
向き合わない向き合えない自分の執着そのものを直視することは、人生を正直に生き切る実践です。あらゆる自分の執着に気づき、受け容れて乗り越えることで得られる新たな境地は、他の人のお役に立つのですから引き続き自分自身と正対する精進を続けていきたいと思います。
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この週末、寒さが堪える中で手や耳が痛くなりながらも、自分の中にはない意味を探しながら走ると、やはり仲間の存在に後押しをいただいていると感じました。また、頭で考えずとも、米、味噌、納豆、糠、と触れながら生活をしっかりとすることも後押しだと感じます。
1年分の味噌作りも、お金や手間、保存場所、様々な言い訳が浮かび、自分への執着を感じましたが、いつも通りの生活が後押ししてくれました。いつ何があるからわからないからこそ、生き方を習慣や文化として、家に残したいと思います。
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死を覚悟すれば、「勇気とは何か」ということがわかり、執着を超えて生きることができると言います。「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし、生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」です。真理ではないこの世的なるものをどれだけ手離し、そして、真理に生きることができるか?!この世的なものに対する執着の重みで沈んでしまわないように、「勇気とは何か」を問い続けたいと思います。
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山寺にあるロウソクに火を灯し歩き続ける夢を見ました。手に持っている火も灯した火も風で消えそうになりますが、それでも次から次へと灯し続けその途中で目が覚めました。今行っていることに何か重なることを感じ、とても不思議な感覚があります。火を灯しながら火を守りたいと感じたのは、見守ることに近いような感覚もありました。自らも途絶えることなく、周囲を灯せるようもっと向き合っていきたいと思います。【●】
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昨日は仲間の新たな挑戦を知り、日々気づきを頂いているこのブログの意味もまた改めて感じ直しました。仲間の挑戦は自分自身の新たな挑戦の機会でもあり、同じように覚悟が試されているのだと受け取りました。一瞬一瞬の体験はどれも無駄なものがなく、全ては子ども達に伝え遺せるものだと思えば、自分のいのちは自分のためにあるのではない、という感覚を得ます。人生で何度か生き方を変えてきたつもりではありましたが、この一年、まだまだ真剣勝負には程遠かったようです。自分をフルに遣っていきたいと思います。今日も気合いが入りました、ありがとうございます。