地球誕生から46億年と言われ、今まで様々な文明が生まれそしてまた滅んできたということは過去の歴史が証明してくれている。
その過去の歴史には、現代を凌ぐほどの自然科学が発達した時代もあったというように私たちは何度も何度もこの地球上で高度な文明を発達させてきたのであろうとも思う。
しかし、そのような高度な文明を築いたのにいつも歴史は繰り返され同じように滅んでいくというのはこれは果たしてどういうことであろうか。
それは一般的には何かのせい、つまり地球環境のせいや天変地異のせい、予期せぬ何かしらの出来事のせいにしてしまうけれど真実はきっとそうではない。
滅びるすべての問題は人間の方にあり、人間が持つ欲というものに負けただけということではないかと私は思う。
先日、女性環境保護活動家のワンガリマータイさんがお亡くなりになった。
持続可能な平和な社会の実現を目指して取り組み、来日の際に日本語の「MOTTAINAI」という言葉に感銘を覚え、世界に日本の文化を広げてくださった方でとても大きな功績を世界に遺された方だと私は思っている。
この持続可能というのは誤解があるけれど、地球環境のことではなくて今の私たちの人間文明が持続可能かどうかを語っているのであり、今の人間の生き方そのものが欲に負けてしまったらもう続かないぞと警鐘を鳴らしているのがこの活動の本質であると私は思っている。
世界では環境保護活動というものが誤解され、さも自分が地球や生命を守っているかのように語られ、環境に優しいだのエコなどとやっているけれど一向に進まないのはそれをエゴでやろうとしている人たちが多いからである。
本来、地球に守ってもらっているのはいつも人間の方で、決して地球は人間が守っているわけではない。
問題は地球環境の方ではなく人間の方であるのにいつまでも地球環境の方のせいにしてしまえるのは人間が自分の方が問題だと思わないほど傲慢になってしまったからである。
つまり欲に負けて傲慢になるから文明が持続可能にならない、何度も何度も文明が滅ぶというのは自分が次第に傲慢になっていることに気づかなくなるからである。
人間はちょっとうまくいくとすぐに傲慢になる生き物である。分かった気にさえなってしまえば、その瞬間にはもう欲に負けてしまうのである。
これはすべての経営にも通じることであり、社長が傲慢になるから会社は倒産し、個人でも自分が傲慢になっているから人生が破たんするのである。
そうならないためにも全ての問題は実は自分の方にある、人間の方にあるのだと自覚し、その問題だと思う矢印を自分に向けることこそが傲慢であったと反省し続けることである、そしてそれが持続可能な人間生活=平和な世界を維持することになるのである。
なぜ教育があるのか、何のためにあるのか、それは私は人間が傲慢になってしまわないようにするためであると思っている。それを傲慢にすることを助長するような教育者や教育が蔓延し広め続ければ現代の我々の文明は近い未来に必ず破たんし終焉を迎えることになる。
まだ間に合うはずであり、如何に自分たち人間の方から変わっていくかに気づくかが持続可能な社会を維持していく上で必要不可欠なのだと私は思います。
子ども達には、人間の大人の傲慢な姿ばかりを押し付けて恥ずかしい生き方を見せなくてもいいように正しい内省を実践し本来の自然、つまり「自分の方から」を示せるよう大切にしていきたい。
人間が問題を外に向けるときは、すべて傲慢になっているときである。
大変なことではありますが子孫のためにも問題は人間の方、そして自分の方なのだから、謙虚に素直に自然の生き方を学び取り入れ共存共栄の道から外れないように、かんながらの道の実践を優先し常に自分を変える方に力を入れていこうと思います。
文明の成熟さというのは、人々がみな譲り合い謙虚でいることだと思います。
そして私は日本人で生まれてきたことに誇りを使命を感じます。
人生のテーマが世界平和につながっていると信じて、また今も自分の方を観直していこうと思います。
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矢印を自分に向け内省する時間を設けることが必要だと感じます。外に矢印を向ければいくらでも言い訳も、相手のせいにすることも出来ますが自分自身がどうだったのかから考えることが、大人としての立ち振る舞いであり、自己肯定観にしても自分自身を向き合うことだと思います。自分自身に矢印を向け、向けた矢印をどうするかは自分の気持ち次第ということですね。
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皆さんはユーロ圏でPIGS(ブタ)と呼ばれ、問題児扱いされている国々をご存知でしょうか?ポルトガル、イタリア、ギリシャ、スペインの4カ国がそうです。
実際これらの国々では、産業がいまひとつ振るわず、大変苦しい財政状況になっています。ただし、債務超過の額から言えば、日本のほうが大きいのですけれど・・・。
さて、私は昔スペインの友人宅に招かれたことがあります。その時の、ちょっと驚いたエピソードをお話したいと思います。
友人は僕を車に乗せ、アランフェスという夏の離宮に向かう途中、荒涼とした赤茶色の大地を飛ばしながらこう言いました。『このあたりはね、昔は一面緑の森だったんだよ』
僕は尋ねました。『どうしてそれが無くなったの?』『それはね、滅亡したインカの人たちの呪いだから・・・』彼はいたずらな目をして笑いました。
後から詳しく聞いた事実はこうです。植民地時代の好景気の折、現金を求めて都市部に人口が集中。農産物が高騰。急激な農地の拡大と、燃料としての森林伐採。それで大地は再生不可能なまでに荒れてしまったと。
野見山氏が指摘された通り、ここでも人間の目先の欲で、大切な自然が破壊されてしまいました。やはり『国家の計』は50年100年先を見据えて立てなければならないのです。
では、今の日本の政治家に、それのできる人が一人でもいるでしょうか?震災の被害に苦しんでおられる人々を目の前にして、増税するしないで、いつまでも揉めているのです。
なぜ全体に向けて『被災地を世界で一番美しい場所にしましょう!』と、号令をかけないのでしょう?そうすればほとんどの人が喜んでその目標に協力するというのに…。
それは政治家が、現在既に富も権力も持っている人たちの意向に耳を傾けているからなのです。だから『復興、復興』の掛け声の下に、結局はまた資本家が富を拡大する結果になるでしょう。
しかし、私は日本の未来を諦めてはいません。いつか必ず、野見山氏のような『野に散らばっている志』が集まる時が来ると信じています。
三国志の英雄たちのように、人類千年の歴史に名を刻む『劉備、関羽、張飛』クラスの人材が、意外と身近に出現するかもしれないのです。ワクワクしながら天の時を待ちたいと思います。
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環境に対しての活動は沢山ありますが、確かに私たちが地球を守っているのではなく守られているのだという事を感じます。誰のものでもないはずの大切な水や光そして土をいつの間にか自分のものとし、更には自分たちの都合でそれを守ろうとしているという事はやはり傲慢あるとしか言えません。この傲慢さが続けばやはり先は閉ざされてしまうというのもそれこそ自然の流れでは無いかと思います。又やはりここでも教育の必要性を感じました。私たちが何のために教育を受けるのか、何かうまくいく方法を学ぶのではなくブログにあるように傲慢にならずに感謝して生きれるようになる為だと特に今は感じます。