人は最初の関わりでどのように育ってほしいかでその研修や教育の中身が変わってくる。一番初めに何からどう関わるか、その初心や原点ともいうべきものがなければ後々に正しく素直に育っていくことが難しくなる。
これは自然農と同じく、最初に耕してしまったり肥料を入れたりすればそのあとそれを修正するためのことばかりをしないといけないように、人も同じくまずは心から学び、経営者の人間観を感じ、企業文化に馴染み、仕事の仕方を覚えるというように、その踏むべき手順というものがあるようにも思う。
何かの大切な使命や目的があって、社会に出てきて組織の中で活躍するのだから優先順位を体得することは自立するための重要なプロセスとなる。
長い目でものを観た時に、将来、その人にどのようになってほしいかから考えれば目先のことを教えるよりももっと大切なものから感化しようと思うはずである。
最初が肝心で時間がかかるけれど、それをしっかりやるから将来社会で有益な人財となって貢献してくれる人になるのだと思う。
例えば、会社なら社長になる人は最初から社長になる教育を受けているのである。
最初から一般社員になるような教育などは受けていないのである。
しかし世間では即席栽培ではないけれど、すぐに収穫しようと焦り、また本人も早く実がならなければと自ら正しく学ぼうとはせずにいるから、大事なものが観えなくなっていくのであろうとも思う。
人間同士の深い関わり、人間観の触れ合いから最も優先している大切なものは、その生き方や生活から学ぶことが本質的であるのだと思う。
あの偉人をたくさん輩出した松下村塾も、徳風で満たした藤樹書院も生活を通して塾生を感化さしめたからこそそこから生きる根本の意義や塾長と言われる人の生きざまや大義に触れて将来の自らの参考にしたのだとも思う。
思いやりや真心というものは、正直に素直に学び合い続ける間柄でしか機縁は生まれず、そういう澄んだ世界でのみ互いに伝授伝播されていくのであろうとも思います。
学びとは表面的なところではできないことの証明であり、それは人間は深くその人の人間性に触れることでしか共にできないことも顕しているのだと私は思う。
これからの新人研修のあり方や、その志のある人物の見極め方、またどう感化するのかは生活が基本になっていると実感します。
思い返せば、自分が今まで恵まれていた有難い学びの環境があったと本当に感謝に尽きます。これは志の御蔭かもしれませんが、今は同時に役割交代として頂いたものを次へ譲ることで恩返しをしてその学びをさらに深めていきたいと思います。
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今日は学校におけるリーダー教育について考えてみたいと思います。今から30年位前までは、日本中どこの学校でも盛んにリーダー教育が行われていたものです。
実際私が教師になったのは若干それよりも後で、それほど盛んな現場を見てはいません。それでも先輩の先生方から、次のような言葉をよく聴かされたものです。
『以前は盛んにリーダー教育がされ、生徒の中にリーダー性がどんどん育っていたものだ。現在はそれが批判されてだんだんできなくなってきている。しかしリーダー教育を絶やしてはならない』と。
では、そもそもリーダー教育とはどんなものだったのでしょうか?実はどの子にもリーダーになれる分野とかタイミングがあります。
例えば登校中、地面に大きな蜂がいたとします。この蜂が危険であることを知っている誰かが、知らない者たちに『この蜂はスズメ蜂だよ。刺されたら命に関わるほど危険だから、近づかないように!』こう知らせて、集団を守ってやることがリーダーの役目なのです。
つまり、自分が知っていることや出来ることを、知らない人や出来ない人に伝えていく。この『他に奉仕する喜び、信頼される喜びを知る』ことがリーダー教育だったのです。
さらにリーダー教育では、クラスの実態を分析させ、弱点を見つけさせます。(例えばどこの掃除が不十分とか)それが見つかったら目標を立てて、問題解決までのプロセスを学びます。
このような活動の中から、子供たちは自分のリーダー性を磨き、団結すること、集団を高めていくことの重要性を学んでいったのです。だからリーダー教育は、決して成績の優秀な子に特別なポジションを与え、優遇することではありませんでした。
ところが30年ほど前から急に『リーダー教育は間違っている』という指導が上のほうから来るようになりました。『一部の生徒のリーダー性を高めるのは、教育の平等に反し、差別を生じさせる』というのです。
当時まだ若かった私は、教育のトップに立つ人が良く分かっていないな、くらいの感覚でした。しかし実際は一般の人々の中からリーダーが出て来ないようにするための恐るべき目論見だったのです。
本来リーダーがいる集団なら、虐めがあればそれを止めさせます。だから教師が知らないところでも問題が解決したのです。ところがリーダー不在のせいで、虐めはここまで深刻な問題になってしまいました。
しかもマスコミは、いじめが起これば教師ばかりを責め、肝心の教育の方針を決定している文科省を責めることはありません。マスコミは本来権力側を見張る存在だったはずなのに、現在は権力者側に立っていて大変残念です。
過去に多くの先生方が、素晴らしいリーダーを育てて来られたリーダー教育。いつか再び評価され、実践できる日が来るよう願って止みません。
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人が何かを育てるという考え方や関わり方自体が果たしてあっているのかという事自体ともう一度見つめ直さなければいけないと感じます。特に自分の目先の事だけを優先して考え、人と接すれば取り返しのつかない事になるという事を今は様々な体験から感じます。しかしその気付きの中でもいつの間にか自分都合で物事を捉え、周りを巻き込み生きている事を考えるとまだまだ問題の本質が見ていなのだと気づかされますし変わろうという意識が低いのだと感じます。実際にカグヤでもこれから多くの人が関わり人が増えていく事が予測されます。その中で目先の事だけではなく先をしっかりと見据えた中で関わる事が大事だと感じると当時に、やはりその前に自分自身がどうなのか、しっかりと矢印を自分に向けて先ずは自分の姿勢や在り方、そして考え方を正して行かなければと思います。
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一日の中で仕事以外の時間のほうが長いことを考えると、それ以外の時間に何をしているのかを学ぶことは、一日中志に繋がることを考えているように思います。「何のため、どうして」を考える時間が増すほど、問いに応えることは一人の時間では過ごせない貴重な時間だと感じています。お互いにとって初めての新人研修は、学ぶことが多いことばかりではないかと感じています。役割交代をしてからどうするのかを考えるのではなく、自分と同じような経験を準備しようと今から思えるのは、私自身が今経験している研修があるからだと思います。いつも貴重な体験をさせて頂きありがとうございます。
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長い目でものを観た時に、将来、その人にどのようになってほしいかから考えれば目先のことを教えるよりももっと大切なものから感化しようと思うはずである。
という文章を読んだときに、現在の教育の在り方もそうですが、自分自身を自分が思った時に、もっと大本から自分を律していくことが大事だと感じます。
仕事とはその人のあるがままの姿が本質的ににじみ出てくると思います。
今の自分の心や生活習慣を変えずに、出てくる答えを調整するかのように技術や知識を備えるよりも、
いまの自分自身が付けてきてしまった様々な刷り込みを取り除く為の、学びや実践が大事なのだと感じました。
自分とのより深い対話を大切にしていきたいと思います。