終わらない夢

私たちはかつての人たちに様々な生き方を遺していただいていることに気づきます。

昨日書いたサミエル・ウルマンの「青春」の詩も、その詩に夢を遺した人物と、その人物の目指す理想を受け継ぐものたちによって夢が続いています。書き記した人物はもう死んでしまって生存していませんが、その人の夢は他の人に語り継がれることによってこの世に存在しています。

忘れ去られていくのが世の常ですが、それを忘れない人たちによってその夢は時代を超えて遺っていくのです。しかもそれはその人が出会ったこともない人たちですし、その人が生きていない時代の人たちなのです。

自分の遺志というものは、誰が受け取るのか、そして誰が後を綴り夢を観続けるのか、それは誰にも分りません。しかし確かに分かっていることは、夢は終わらないということです。

夢が終わらないからこそ、どんな夢を自分が観ているのか、どんな夢を観たのか、そういう物語が何らかのかたちによって出会う事を信じて諦めないで生き方を遺していくしかないのではないかと私は思います。

沢山の人たちの夢は、全て一つのところに集約されているように思います。

それは人類の夢とも呼んでもいいのかもしれません。人類の夢は時代と関係なく、世界と関係なく、生物無生物の分別を超えて今に生き続けています。

夢を明らかにすることは、その時代の夢の継承の発信でもあります。夢は代々集積し偉大に発達していきますからその初心を忘れないように夢をカタチにしていきたいと思います。

  1. コメント

    父の事を思い出しました。父は何故、添加物を一切取らない環境をくれたのか、ゲームではなくヨットやテニスだったのか、学校の授業よりも体験を重視したのか、、など、一部を振り返るだけで夢を感じると共にカグヤと引き合わせてくれたのは父ではないかと感じてしまうくらいです。頂いた夢を粗末にせず、青春を過ごしたいと思います。

  2. コメント

    「志は、世のため人のためという思い」であるが、「野心は、私利私欲である」と言われます。また、「野心でなした事柄は、一代ではかなく消えてしまう」が、「志は、必ずそれを受け継いでくれる同志が現れる」とその違いが指摘されます。「夢をつなぐ」「志を受け継ぐ」という生き方は、同時代に生きる「横の関係の自他一体」とは違う、「縦の関係の自他一体」なのではないでしょうか。「つなぐ」ということの価値を見直してみたいと思います。

  3. コメント

    詩、音楽、絵画など後世に遺すと今も触れられます。それを感じられることは同じ時代に生きていなくても、その思いを馳せることで感じられるのは今も夢が続いているからなのだと感じます。そして生き方も伝承されていくのを思うと、実践の発信をし続けていきたいと思います。【○】

  4. コメント

    若い頃から自己犠牲の精神に尊敬の念を持っていました。自分より小さな子、力の弱い子を護るためには体の芯から力が湧いてきました。今でもとっさに体の方が先に動いてしまうことがあります。そのため第4条「自分のいのちを守ってから他人を助けよ」が未だに守れるのか怪しく思えました。ですが、昨日の一日を通して、そもそも「自己犠牲」という言葉自体が本当は無いのではないかと感じました。自己満足でもなく必ず本人には命をかける程の思いがあり、そのお蔭で護られたものもあると思っています。この点においてはまだまだ刷り込みがあり葛藤は続くのかもしれません。

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