気づくというのは一体どこで行うのだろうか、それは頭ではなく心である。
心が先に気づき、それを頭が認識するという順番である。
しかし日頃から自分の心をすぐに信じずに先に頭でっかちに考える癖がついてしまえば、心が気づいたことはそのままにしておき、頭で分かったことしかしないということになってしまうことがある。
それでは、気づいたことをやっているのではなく分かったことをやることになる。そして気づいたことを分かったことにすげ替えてしまうことを「分かった気になる」と定義している。
もしもこの分かった気になってしまえば、気づいたものとは実際は異なるのだから気づいたことの本質から遠ざかり本来気づいたように変わることができない。
分かった気にならないというのは、気づいた瞬間から分からないようにすること、つまり感動している心を保持したままに気づいたタイミングで何をすぐに実践して忘れないように取り組みはじめるかということである。
人は何のためにやるのか、本当は何かのためにやっているかを考え抜かないと気づいたはずなのに実際はそうではなくなっていることがある。何のためにかが明確に立っているならば、分かった気になることは少ない。
なぜなら本質でやっていると真の意味が分からないままだからである。
モノゴトや出来事の真意は、一物全体、広大無辺、無限の時空ではないけれど、偉大なものと繫がりの中で発生しているのだから心で観なくては掴めないもの。だから頭では分からないことの方が、実際は気づいて掴んでいけることが多いのである。
その一つの方法が、何のためかという「本質」かどうかということである。
気づき力ということは分からないからやってみようという心であり、気づいた瞬間は心が全体を直観で捉えるのだからその感じた心のときに感応してすぐに行動して体で覚えるというようにコツというものを掴むために何度も何度も挑戦する力。
これは子どもが何かをチャレンジしてマスターしていくのと似ていて、自らが感じたことをすぐにやろうとして取り組む中で身に着けるのである。
今の時代は、それよりも先にどうせ無理と何度も自分の心を抑え込んできたからそれが出にくくなっている。ひょっとすると親や大人にあまりにも厳しく自由を束縛されて育てられるとそうなってしまうのではないかと今では洞察もしている。
しかし、誰かのせいにしても何もはじまらないのだから自分から気づいたことを思い切って行動しそれを最期まで遣り切る体験を積んで過去に自分を抑えつけたものを取り払うくらいの勇気を気づきの力で乗り越えることで志が強くなっていくのである。
気づいてすぐに変わるというのは、気づいた時こそ心が変わろうとしているときだと信じる事。
その気づいた瞬間に頭で理解して都合よく自分を言いくるめるための知識に変換するのではなく、気づいた瞬間に知識にせずに実践してその気づいたものを掴んでやろうという勇気と気概こそを優先するといいのである。
自分を変えることを自分に小さな知識や判断、頭でっかちの場所でやるといつまでもうまくいかないのは原理原則の通りである。
もっと素直に、気づいた、やった、やれた、よしもっとやろう、あっ変わってると感じる好奇心を伸ばしていく生命の根幹のものを引き出していくことで発達を楽しんでいけたらと思います。
子どもたちの発達と大人たちの発達も同根のものを使うことを示していきたい。
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社長の提起に従って、『気づき(ひらめき)』と『考えつき(思いつき)』の違いを考察してみたいと思います。私の教員時代の経験を紹介しましょう。
ある中学3年の女子が親と喧嘩し、家出しました。親は書置きを見て担任に連絡。2月の夜9時、校長教頭、3年の教員全員が学校に集まりました。
校長は『思いついた』捜査法を提案。まず電話網を使って学年全体の生徒の家に連絡し、当該生徒がいないか確認させます。勿論友人宅にいたとしても『いません』と言うに決まっているのですが…。
その後教員を配分して、生徒の家の付近、駅、ゲームセンター、公園など捜索します。時刻は11時。2月の深夜、生徒が戸外にいる可能性は低いです。
私はもう一人の先生と、駅の担当になり最終列車0時30分まで駅の周りを歩き回り、その後学校に戻りました。結局3時まで教員は学校に残り、朝からの捜査計画など立て、担任は生徒の家に打ち合わせに。しかし手がかりはありません。
私は4時に寝るとき、生徒が早く見つかるように『枕』にお願いして休みました。すると、6時に起きたとき、卒業生に聞いてみたら分かるような気がしたのです。それで7時まで待って、電話してみたら、果たしてその女子が卒業生の家に泊まっていました。
このような『ひらめき』は、教師なら誰でも経験することです。社長が仰りたいのはきっとこの『ひらめき』の会得のことでしょう。ただこれは狙ってゲットできるようなものではありません。
なぜなら、ひらめきがやって来るためには規則性があるからです。一つ目には自分に利害関係がある場合はダメです。欲が心を曇らせるから。二つ目に、あまり深刻な問題もダメです。これも緊張が心を震わせてしまうから。
三つ目には性格的に、向き不向きがあるのです。社長のように『お役に立てるなら命さえ捧げて良い』くらいの、少々では揺るがない堂々としたオープンハートが必要になるのです。
私はどちらかと言うと『思いつき(考えつき)』という普通の進歩を目指して欲しいと考えます。なぜなら、普通の力量の人が『ひらめき』に憧れるのは、いちいち細かく考えて準備をする面倒を避けたい気持ちがあるからです。
そのような人が『ひらめき』を求めると、思い込みによって返って盲目的に進んでしまう恐れがあります。自爆テロを起こす幼い子供たちが、よく『神の声を聞いたから』と言うのは、強すぎる思い込みが幻聴を起こさせるからなのです。
普通の力量の人であれば、『人事を尽くして天命を待つ』方法が一番良いのです。ただ、並々ならぬ力量を備えている自信のある人は、社長のように『直観力・ひらめき力』のステップにお進みくださればと思います。
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自分自身の気付く量は意識にあり、気付いた瞬間から行動に映せないのは人任せにしているところがあるからだと考えさせられます。理念を共有し、理念に沿った行動であれば何をしてもお客様のためになると思っています。しかしその方向性をまだ十分理解していないことを感じました。行動に移る前に他のところで止められてしまう・止まってしまう。何のために仕事をしているのかもう一度を考えていきたいと思います。
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やってみようと思う心が大事だということを改めて感じました。今までの私は、心ではなく頭ばかりを使って来たのだと思います。また気付いたという心を信じ切れずにいたのだとも思います。実際に気付いて変わろうとして新しい取り組みを行ったこともありますが、それを継続してやれなかった事が多くあります。頭でわかった気になっていたこと、何か行動を起こそうという心を信じ切れていなかった事、反省させられます。これからは、気づきと行動をセットでそして変わっている自分を感じること、好奇心を継続し続ける事、大事にしたいと思います。
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頭でわかっても生き方は変わりませんが、心で分かれば生き方が変わるのだと感じます。頭で理解するということは、今の自分の生き方の中でどう解決するかということを考えることはできますが、心の在り方そのものを変える考えはできないと感じます。頭は分からないと行動ができませんが、心はそうでないように感じます。わかっていることの中に真理がないからこそ、悩み苦しみながらも人は歩むのだからこそ、頭で理解しようとすることの無意味さを感じます。心で感じ、自分の理解を超えたところに真理があると信じ行動し、心が変わること、その先に頭で理解できる新しい世界があるように感じます。まだまだ、楽しみは広がっていると勇気が出ました。ありがとうございます。