人は焦りが不安を持つと信じる力が弱まってくるものです。信じるというのは、無条件ですが実際は知らず知らずに条件をつけては不信を増やしてしまうものです。それでは不信の元は何かということです。
そもそも人間は自分の思い通りにしたいと願っているものです。自分の思い通りであれば順調と思い、思い通りでなければ逆境だとも思ってしまいます。しかしこの思い通りにしたいという欲は、自分の中から出てくる我欲であるとも言えます。思い通りにいっていればいるほどに、上手くいっていると思うのは言い換えれば自分にとって良いことなのだからきっと信じていいのだと勘違いするのです。
しかし実際の出来事をよくよく観察すると、思い通りにいかないときの方が思った以上の出来事が起きていることが多々あるのが人生です。一見、その人にとっては都合が悪いことであっても周りや全体にとってはとても善いことが起きていたりします。自分の都合が悪くても、その分周りは倖せであったりもします。自分の思い通りであるほうが安心するのかもしれませんが、すぐに思い通りでなくなったらまた不安戻るではそれは信じているにはならないように思うのです。
では信じるとは何かということです。
それは思い通りではなくてもきっと善いことになると信じているという境地の体得ではないかと思います。つまりはきっと何かそこに大事な意味があると深めることができたり、本当は何かと本質を突き詰めたりすることで自分の思い通りという我欲を超えて思い通りでなくても自然にお任せするという謙虚な気持ちによって無条件の信にしていくことのように思います。
人生は自分の思った通りにはなりませんが、同時に思った以上の素晴らしいことが起きているものです。思い通りではないことは不足を感じますから時にはつらく苦しく長く何度も煩悶するときもあります。しかしその時こそその苦悩や辛抱こそその人を育て、我欲に打ち克つ強さを与えてもくれています。
これでいいのだと思える心境や、足るを知る境地に達するというのはみんなその自分自身との正対に向き合い乗り越えた人たちが得ているものです。自分自身との正対は常に自分を我欲を超越したところで素直に改善していく中で磨かれていくものだと思います。
思い通りではなくてもそこに偉大な御蔭様があることを忘れず、いつも目に見えないけれど確かにあるご縁を信じることは本当の意味で思い通りであるはずです。自らの感謝の心を育てて信を高め、有難い日々を清々しく歩むためにも心を澄ませて自分に挑戦していきたいと思います。
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逆境の時に、思い通り!と思える達観をまだまだ持ててはいませんが、その何でも福になるという信念と、生まれる笑顔や笑いといった遊び心を持ちたいと強く思います。辛い時こそ笑えとは言いますが、逆境や辛さを有難い、良い事になると信じた笑いを味わえる自分になれるよう、今ここにある様々な機会を有難く受け取りたいと思います。
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自分の「思い通り」にならなくても、その「出来事」が生じた背景には、何らかの「意味」があります。その「意味」が、よき未来に繋がる一歩であることを確証することが「信じる」ということではないでしょうか。「信」とは、「現象の確認」ではありません。「確認できないことを確信すること」です。自分の都合にかかわらず、「最善観」で安心して生きられるようでありたいと思います。
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中学生の頃思い描いていた10年後の姿は今ときっと違うものだったと思いますし、想像もしていない想像すら出来ないような日々を送っています。同窓会で恩師から「こんな日が来るとは思っていなかった」と話をされ、もし当時先生が定年祝いをしてもらうために自分たちに関わっていたとしたら、今日のような日はきっと訪れなかったと思います。思い描いた通りかは人それぞれですが、成長した姿を見てもらえたこと、そしてこういった機会をみんなで味わえたことを大事にしていきたいと思います。【○】
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ある方が仰っていた言葉を思い出しました。「自分の目の前に来たものを選ばずに、今与えられているものに対して、逃げずに真摯に取り組む。その積み重ねで、自分が想像もできないような、自分に出逢え、自分が本当に望んでいたことが実現する。」一体どこまでが我欲なのか分からなくなることがありますが、思い通りでなくていいからと手綱まで放してしまうのは違うのだと思います。信の境地はまだ全然分かりませんが、与えられた機会に対しては分からないままでも正面から向き合っていきたいと思います。