今から千五百年前に私たちの国を治めた仁徳天皇がいます。大変思いやりが深い名君として存在し、日本で最大のお墓仁徳天皇陵も大阪に遺っています。
その物語の中には、民を優先し自分を後にするという実践を行ったことが紹介されています。古事記には、その有名な話が紹介されています。そこにはこうあります。
「ここに天皇、高山に登りて、四方の国を見たまひて詔りたまひしく。国の中に煙発たず、国皆貧窮(まづ)し。故、今より三年に至るまで、悉に人民(たみ)の課(みつぎ)、役(えだち)を除(ゆる)せ、とのりたまひき。ここをもちて大殿破れ毀れて、悉に雨漏れども、都(かつ)て修め理(つく)ることなく、器(うつはもの)をもちてその漏る雨を受けて、漏らざる処に遷り避けましき。後に国の中を見たまへば、国に煙満てり。故、人民富めりと為(おも)ほして、今はと課、役を科(おは)せたまひき。ここをもちて百姓栄えて、役使(えだち)に苦しまざりき。故、その御代を称えて、聖帝(ひじりのみかど)の世といふなり」
意訳ですが、丘に登って国内を見渡せば民百姓たちの御米を炊く竈の煙がみえなく民たちが貧窮していることを知った。そのため三年は全ての民百姓への課役課税を免除することにした。自分自身は徹底した倹約を実践し、宮殿は痛み雨漏りしてもそれは器で乗り切り、雨漏りのないところに移って耐え忍びました。そしてのちに国内をまた見渡せば竈の煙が満ちていました。そこで民百姓は裕福になったということで課役課税をまたはじめました。すると民百姓は栄えているから誰も嫌がることもなく進んで取り組んでくれました。この豊かで幸せな時代を称えて聖帝の世と呼ばれています。
論語に、民信なくば立たずがあります。仁徳天皇にとっても、民があって私があるのだから民が富まないのに私が富むはずがないと言います。民が貧しいのなら私も貧しいと自他一体に自分を盡していきます。この自他を分けずに一心同体になって民と共に生活していくということの中に治世の本質が入っているように思います。
後世では、この御人徳を参考に二宮尊徳や上杉鷹山が出てきます。私たちの神話がまだ今も続いていて、この国がどうあるべきかを示すのが親祖より示されています。国のカタチを思うなら、どのような国のカタチを私たちが今まで経てきたかはとても参考になります。
小さな組織でも大きな組織でも、集団でみんなが暮らせばそこには一つの国があります。貧富かどうかではなく、みんなが真心や思いやりを優先する世の中はいつの時代も倖せが香っています。
その道が今でも続いているからこそ徳は孤ならず必ず隣ありということです。
勇気をもって先人たちの通った真心の道を目指していきたいと思います。
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「受次ぎて国の司の身となれば、忘るまじきは民の父母」これは、上杉鷹山が米沢藩主となったときに、「藩主としての自分の仕事は、父母が子を養うごとく、人民のために尽くすこと」という決意を込めた言葉だと言います。この「父母が子を養うごとく」という「民の父母」という言葉には、愛情のすべてが詰まっている感じがします。相手次第でもなく、内容次第でもない、一切の条件を超える純粋な愛情こそが本物なのではないでしょうか。
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煙から生活を伺い知るその深さにただただ驚嘆するばかりです。そして、そこに「格物致知」の意味を感じ、自分はどうだろうか、いつ頃から思いやりは芽生えるのだろう、そんなことを考えてしまいます。小さい頃から今に至るまでたくさんの経験をしながら、優しさに感動することも何度もあり自分も誰かにしてあげたいと思うのですが、忙しくなるとあっという間に頭からなくなってしまいます。そんな時こそ自分自身の言動の振り返りを大事にしたいと思います。【●】
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「雨漏りを器で乗り切り、雨漏りのないところに移って耐え忍ぶ」、ここに仁徳天皇の真心を感じます。民の立場で、民と同じような倹約をする。民が本当に親しんだのは、ただ課を免除されたからではなく、君が民と同じところに降り、自らの姿で思いやりを見せて下さったからなのだと思います。始まりは思いやりをからの行いであっても、いざ事にあたる最中に相手への配慮が足らず一方的な行いになることがあります。どれだけ相手を慮り同じ気持ちになれるのか、日々に真心の研鑽を積んでいくしかありません。
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傾聴と共感、受容、感謝は同じ体験が無ければ、同じ環境に自分を置くことなのだと、改めて先人の実践と思いやりの深さから学ばせて頂きました。まず何よりも、行動の元が自分の為になっていないか。目の前の人ではなく、誰かの為になっていないか。振り返りの際に自他が離れていないかを意識していきたいと思います。