仏教に自因自果という言葉があります。
この「自因自果」とは、自分のまいた種は自分が刈り取らなければならないという意味です。人は善行を行えば善行がかえってくることをなんとなく分かっています。しかし悪行を行っている分についてはなかなか自分が認めたくないものです。
実際に何かの事件が発生するとき、それはもうだいぶ昔に自分が蒔いた種が花が咲き実をつけたものです。善い種を蒔いていたから善いことが起きて、悪い種を蒔いたから悪い種が出たということですがそれがだいぶ前のことだから思い出すこともなく眼前に一喜一憂してしまうのです。
特に悪い種の場合は、相応の自分にとってつらいことが発生するものです。しかしその悪い種を認めてその種を蒔くことを止めて、別の善い種に変えようとしなければやはり同じように芽が出て実をつけてしまうのです。これは永遠に繰り返されます。
自分でも気づかないような悪習慣は、他の人に教えてもらったり、体験を素直に内省して改善していかなければその種を蒔くのをやめないものです。同じように善い種ということにも気づいて如何に全体に善い種を蒔き続けるかということも大切です。
昔から「善いことは御蔭様、悪いことは身から出たサビ」という言葉があります。
如何に自らが御蔭様を感じて善い実践を積み重ね、自分自身に打ち克ち、日々に手入れして磨き上げ錆びないように実践研磨するかは本人の心がけ次第です。
人はみんな放っておけば誰しも傲慢になるように欲深くできていますから、如何に日頃から謙虚に御蔭様を感じ勿体ない有難いと実践を積み重ねて余計なことをしないかが正しく因果を見つめることかもしれません。
しかし振り返ってみれば善い悪いはなく、ただ福があったというのが人生です。どんな種も芽が出て花が咲けば自然界のいのちの何かしらのお役に立てます。
どんな出来事からも学び、それをより善く活かしていこうとするのが天の真心かもしれません。善いことはもっと善いことへ、悪いことも転じて善いことへ、それぞれの持ち味を愉しみ活かすことが因果の妙法なのかもしれません。
日々に執らわれない心を育てていきたいと思います。
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「善因善果、悪因悪果」と言いますが、「因果の理法」の本質は、その「連鎖・連続性」にあります。すなわち、「善果」や「悪果」に対する態度が、次の「善因」「悪因」になるということです。特に、「悪果」に対する態度が次の「悪因」になって、悪循環に陥ることに注意が必要です。しかし、どこかで「福に転ずる」ことができれば、新しい「縁起」が始まります。そのためにも、「内省力」や「反省力」を磨き、「転化力」を日々高めたいと思います。
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事件が起きると目の前のことに感情が持っていかれますが、本来そこではないのだと感じました。きっとその前から前兆があり気付かず、見逃し、次の瞬間には事が起こっていると思うと違和感を感じたその瞬間から動かないと、何も変わらない事を感じます。最近とくに思うことの一つに「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ」があります。この言葉に出会った時よりも意味が沁み渡りはじめているのを感じています。一つひとつのこの機会に感謝し進んでいきたいと思います。ありがとうございます。【○】
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改善したいと思うことは多々ありますが、一つひとつが複雑に絡まり悪戦苦闘になっているように思うと、そのものの対処ではただの一時しのぎにしかならず、根源を正さなければならないことを実感しています。容易なことではありませんが、自分に打ち克つ実践を積んでいる仲間の姿を励みに自分を変えていきたいと思います。
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いつもその時は精一杯と思って動きますが、大切なのは精一杯かよりも、振り返り改善することなのだと、今教えて頂いています。動いた後に咲く花をよく見て自分が何の種を蒔いたのかを理解する為にも、自分を守る気持ちや防御の心を捨て、福と思う心で歩みたいと思います。